京都御所・清涼殿
メタボンのブログ
6月17日

16日には妙心寺へ参り、御室の御所。

帯解きの池、お寺と女、心中すというてお寺ばかりを殺し、

女逃げ取るやそれ故坊主に一念残り、夜中女通れば帯に

手を掛け沈めんとせしが女逃げて帯を取られしより、

帯解きの池と名付けしとや。

今に夜中は女大勢にても通らず、池は何ほど埋めても

一夜のうちに元の如くになる由。

又、広沢の池、昔長者のありし所とかや、

それより嵯峨ようのお釈迦に参り候。此の所、

硯様々の美しさあり。

それより清滝川。

橋本にて飯食う。それより坂にかかる。

一坂一坂ずつ茶屋あり。

二十丁目の茶屋、かわらけ投げる。

皆新粉餅あり。愛宕山まで五十丁。

それより月の輪様へ参る。

法然上人、月の輪の兼実公、親鸞聖人、右御三人、

百文にて開帳。

前に時雨の桜あり。又観音様も御開帳、千手観音なり。

桜は三月から五月まで時雨するなり。千体地蔵尊あり。

それより元の茶屋にかえり、新粉餅を食う。一膳20文也。

ねじりしものなり、団子10也。砂糖、黄粉也。

二尊院、小倉山、嵐山、大井川、渡月橋の橋、天竜寺、

虚空蔵、松尾の宮、梅の宮。

それより夜鷹を見る。帰る。

帯屋より手代来たり。酒、三斗樽程の樽に大きなる

茶碗鉢に酒あり。下され候。」

一、きんこ煮かまぼこ付け、むき海老、あわび、名の知らぬ物

一、鱧か鰻にかまぼこ付け、カステラの様なもの、

   白赤生姜、名の知らぬ物

一、さんばい漬け、松茸、いもご、青豆、赤き麩、中に物入れあり。

   黒きもの、芥子かけしもの

いずれも旨く、見かけぬ料理なり。いずれもたっぷりと下され候。

酒、旨き事言うばかりなし。


最初に妙心寺である。

臨済宗妙心寺派の大本山である。

境内は広大で四本の松は開基の時に植えられたものだという。

Myoshinji-temple.jpg

又、妙心寺山内の大通寺には「功名が辻」でお馴染みの

山内一豊と妻・千代が眠っている。

 

金の大判というと、山内一豊の妻・千代が臍繰りの金・大判10枚

を出して名馬を買い求め馬揃えに出た所信長の目に留まった

話が有名ですが、しかし、此の頃の大判というと天正大判ですが、

まだ一般には普及されていないのでは思います。

  天正大判

この後、秀吉が天下を取って、金の粒を城でうず高く積んで諸侯に

金を配って度肝を抜いた話があるように、この当時は、重さで

金の価値を決めていた訳ですから、大判10枚の話も

少し信憑性が疑われる所です。

まして、此の頃は、一豊は2千石の侍ですから、臍繰りから

出さなくとも応じる事が出来たのではないかと思います。

賢妻で名高い山内一豊の妻・見性院

でも、主人公の一豊の妻・千代は司馬さんの本の中でも

愛らしくそして聡明さで魅力たっぷりに描かれてましたね。

 

スケールは違いますが、秀吉の正妻の寧々も又、

面白味のある女傑といったイメージです。

 

共通してるのは、両方ともに子を成さなかった事で

若し、生まれてたらどういう子が出来たのでしょう。

晩年の秀吉を諫めることが出来たのも、どうも、

高台院彼女一人だけであったようで、宣教師たちも、

盛んに寧々に秀吉への執り成しを

お願いしていて、頼みの綱であったようです。

そして、もう一人の弟の大和大納言が亡くなったことも

歯止めを掛ける人物が居なくなり、豊臣政権は

厚みを無くなっていってしまった

 

古来世界の美女の代表として挙げられるのはクレオパトラ

現代の研究では硬貨に彫られた像を見るとどうもずば抜けた

美女というのではないが、9ヶ国の言語を操り、稀に見る

才女であった様です。

39歳で亡くなったが最後の様子もまだはっきりしたものでは無く、

毒を使ったことは間違いないようで、本人も非常に毒について

精通してたという。

墓も発見されていないようで、また新たな発見があれば

もっと明確なクレオパトラ像が分るかもしれません。

映画でクレオパトラというと小生ですとエリザベステーラーを思い出す。

ツタンカーメン

 

エジプト アラブ共和国、1 ポンドの硬貨はファラオ ツタンカーメンを ...

尚、エジプトの王のファラオは、硬貨を造らせたときに

自分の肖像画を彫らせたが、ファラオによっては像の顔が

気に入らないと造り直させたそうです。

像の制作者はどうなったのかと心配してしまいます

 

 大通寺台所門 

一豊が造った長浜城大手門を移設したという
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御霊屋に2人の位牌があるが、

奥さんの千代さんの方が少し背が高い。  

夫婦間の力関係を意味するのでしょうか?
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先に一豊が亡くなり、千代は京に住むのである。

そして、高台院と絶えず連絡を取り、京の情勢を

土佐の息子に伝えて判断を間違えないようする。

その頃は、東西の手切れが予想されていて、微妙な情勢でした。

高台院に「うす色の山茶花」を贈りなさいという手紙を

土佐に送り、高台院に花を送るという手紙を書いたら、

その手紙を高台院に見せなさい。という細かい指示を出す。

これは、情報(手紙)という力を良く知っているやり方である。

前例として、関ヶ原戦の前に我が方に味方しなさいという

大坂から来た手紙を封を開けずに一豊を通じて

家康に其の儘提出したことがある。

それによって一豊は家康の信頼を得て、

土佐の領地を貰ったのである。

その与えた理由として家康は、「戦場では誰でも

手柄を立てることが出来る。

しかし、もっと大きな手柄は、このような事だ」