野田 泉光院(のだ せんこういん、宝暦6年(1756年) - 天保6年(1835年))は、

江戸時代の修験僧(山伏)。本名は成亮(しげすけ)。俳号は一葉。

野田氏は代々佐土原藩に仕えており、当山派修験安宮寺の住職を務めた。

泉光院は文化9年9月3日(1812年10月8日)、全国の諸山を巡る修行に出て、

全国各地を訪れ、文政元年11月7日(1816年12月4日)佐土原に帰った。

その6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。

これは当時の風俗を生き生きと活写している貴重な史料として、

歴史家より高く評価されている。

70才の頃の泉光院

上に簡単な経歴が記されている。

より詳細に紹介すると、安宮寺は佐土原にある修験道の

寺で、元々は地域に野田氏という豪族が居て薩摩島津家に

随従し或る時戦に出陣、17歳の若き当主が討ち死にし、

家が途絶えそうになった刃、それを憐れんだ薩摩島津家の

当主の奥方が甥を野田の家を継がせ安宮寺を建立し

山伏として修験道に行かせた。

従って、山伏でありながら佐土原藩の家臣であり、寺分として

7石、山伏分として20石を与えられている。

佐土原藩長屋

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左に安宮寺があるが他の寺や武家屋敷に比べて敷地が広い

優遇されていたか示すものである。

佐土原藩2万7千石の家臣であり、一方では醍醐寺三宝院に属する

当山派の僧侶である。

 

従って決して貧しい暮らしをしてるわけではなく、山伏として

最高位の大先達の位も持ち、周辺の山伏数十人を指揮するが

その泉光院は56才の時に、僧侶の乞食(こつじき)修行と

いうべき無銭旅行をし鹿児島から秋田に至る地域を托鉢により

米銭を喜捨されることにより旅をした記録でもある。