町人地

江戸時代初期の日本橋のにぎわいを再現

江戸っ子という言葉は何時頃出来たのかというと

川柳の「江戸っ子のわらんじをはく らんがしさ」

明和8年(1773)が最初で、

江戸っ子のうまれぞこない金を溜め

安永2年(1773)などでその後になると、

黄表紙や洒落本、歌舞伎などでも出てくる。

 

江戸っ子というと3代続くと資格が有るといわれ

「芝で生まれて神田で育ち 今じゃ火消の纏持ち」

という都都逸が有る。

 

有り難さ 稀に井戸より 鮎を汲み」

山東京伝は「通言総籬」の中で江戸っ子の条件として。

「江戸城の天守閣をにらんで、水道の水で産湯をつかい、

白い飯を食べて乳母三昧で贅沢三昧に育つ」と記している。

川柳には「鯱をにらむ産湯は玉の水」

玉の水とは、玉川上水の水です。

蛇足ですが江戸城天守閣は、明暦の大火によって

焼失して、山東京伝の時代もそれ以降ありませんが、

気分的な意味であったのでしょう。

 玉川堤 広重
メタボンのブログ 

 

江戸は徳川家康が開いた町ですが、

江戸に来た当時は寂しい漁村であった事は知られてます。

城の直ぐ近くまで海が迫っていた。

2011年の大震災の時に千葉などで液状化現象が

起きて大変な被害を受けたが、そうした地域は

海であったからです。

江戸初期の古地図を見ると判ります。

ですからかなり海が内陸まで来ていたのです

 

天下を握った家康は早速街づくりを始めました

その街づくり要員として呼び集められたのが

三河や駿河から来た職人たちでした

木挽き

「木挽き 絵」の画像検索結果

そして職人が住む町も出来た

大鋸で原木を切る木挽の職人の住む木挽町、

大工が集まった大工町、鍛冶屋が多くいた鍛治町など

江戸古地図にはそうした町の名が多く見える

 

町作りには各種職人を必要とします。

その為に、まず、職人を集めようとしました。

職人の長を「国役請負人」に任命をした

是には付帯業務が付いていて、年に何日か江戸城で

無料奉公することとなってた

これには手間賃を取る大工を含まれず、親方が

負担するものであった。

 

肝煎には3千坪以上の土地と屋敷を与えました。

そうしますと、弟子が集まり、同業種の職人が

住む町が出来上がります。

職人と親方との関係というのは非常に繋がりの

強い関係であり親方は絶対的な存在でもあった

まだ子供の頃10歳を過ぎた頃ですが、弟子入り

で住み込む。

最初は、子守り、掃除、食事の支度、使い走りなど

仕事をやらせてもらえるには数年掛った

大体一通りの仕事が出来るには7,8年掛かる

 

しかも手取り足取り教えて貰うなど有りません

仕事は見て覚える、技は盗んで覚える。

子供の頃から朝は夜明け前に起きて、掃除、飯炊き

昼は雑用、ッ夕方になると又飯炊き、水汲み、

風呂焚きなど子供の手に余る重労働が毎日続く。

 

堪り兼ねて逃げ出したり勝手に止めてしまうものも居るが

そういう場合は保証人に責任が行くので簡単には

辞められないようになってた

「江戸 藪入り 看...」の画像検索結果

一方では親方の負担もある

日に三度の食事やお仕着せを与え、時には小遣いも

ある。

年に二回藪入りとして正月とお盆には休みを1日

与え小遣いと土産と新しい着物とを与えて田舎に

帰らせなければならない。

もう親は子供の帰りを一日千秋の思い出で

待ちかねていたのです

落語の「藪入り」などで十分その気持を

察することが出来ます