小生の好きな得意な分野に入ってきました
トイレといえばその頃の欧州は不潔そのものでした
便器はあったが、便所と言うものは無く、直接人は
オマルに用を足した。
そして便器をベッドの下に置いた。
蘭館の阿蘭陀人もそうでしたね。
しかも、糞尿を肥料として使うといった日本のように
リサイクルしなかったので、夜になるとオマルの中身を
窓からゴミと一緒に外に3回の掛け声をかけて
投げ捨てたから街路はゴミと糞尿で
何時も臭くて不衛生でした
投げ捨てる様子
従って不衛生な所では疫病が発生し、又、雨が降ると
道路は汚水で溢れた。
特にご婦人は靴や服が汚れる事と、暴漢に襲われるのを
防ぐために馬車を考案したという。
道路が整備されて無い為に道路は悪臭とゴミと糞尿で一杯
それから逃げる為にも馬車は必然的に発達していった。
後に排水の為の暗渠も作られた。
日本に馬車が入ってきたのは明治時代であり、
それまでは牛車は江戸と京だけが許可されて
いただけだった。
江戸にも高輪に「うし町」といった町もありました
日本の道というのは土が基本であり、
小石を詰めてる所もあるが
欧州のように石畳みではないので重い馬車が通ると
道路が使い物にはならなくなったでしょう
日本の道というのは軍隊が通行するのを目的としてたので
それは役に立たない
九段坂

しかも江戸の坂というのは、今よりも勾配が急であったらしいので
馬車の運用は難しかったでしょう。
例えば九段坂などは明治になって、
やっと車馬の通行ができるようになり、坂下には一回一銭で
大八車などの荷車を後押する押屋がたむろしていた。
一橋家に嫁入した元大垣藩の姫・徳川元子は、
毎朝、学習院に通学の時、人力車で通うのですが、
この九段坂に来ると、車夫が可哀相で
自分が下りて押してあげようかと、何時も、申し訳なく
思っていたそうです。
江戸で荷物を運ぶというと大八車ですが、段々台数が
増えるにつれて交通事故も多くなっていった
大八車に犬が轢かれないようにという、
人はどうでも良いような御触れが
有りましたが、実際問題、事故は多発しました。
大八車の由来は、8人の男の能力を持っているからとも言い、
大工の八佐衛門が始めたからともいう。
1701年(元禄14年)の時点で、大八車が2239両もあったうえ、
江戸の通りはごく狭かった。
勢いのついた大八車が狭い道を走り、
逃げ場のない人をひくというケースが少なくなかった。
その御触れの内容はといえば、
「大八車をひっかけて人を殺した時、被害者側にいた車の
引手は死罪、反対側の引手は遠島、車の荷主は重き過料
車引きの家主は過料」
何と、どちらかに居るかによって罪が違うし、しかも、
死罪か遠島なのです。
そして、荷主や家主も罪を問われて過料(罰金)なのです。
荷主の責任はまだわかりますが、家主まで問われるのですから
怖いものが有ります。
又、火事の時に、大八車を引き出して使うという事も
御触れにより禁止されている。
当時は、物を運ぶには大八車は有力な手段ですから
当然ながら、使用しようとしますが、火事の場合は
道が混乱してますので、交通の妨げとなるので禁止されます。
では、こうして事故でも死者や怪我人を出した場合の
損害賠償はというと、「御定書」では明記されています。
「人に傷をつけた時の治療代は、傷の多少によらず町人や
百姓は銀1枚」
「酒に酔って人を傷つけたものは、治療代を出す事、
百姓や町人は銀1枚」
それぞれ「疵養生代」といわれた。
銀1枚(銀43匁)は、金1両の3分の2である。
金1両は銀60匁でした。
6,7万円くらいでしょう。
では武士がその為に怪我がしたら、幾らかというと書いてない。
そんなことは有りえないという意味なのか、不覚を取ったら
やむを得ないと意味なのか判らない。
ただ、上記の治療代の銀1枚は、大八車の場合ではないので
適用はされないでしょう。
被害者は、奉行所に訴えるか、内済で済ませるかの問題となる。
奉行所は訴え事が多く業務が捗らないので
何でも内済を勧めていました。
