御庭番の遠国御用は2人1組か3人1組で行われた。

天明5年(1785)の遠国御用の調査対象は、

113家の大名、7名の遠国奉行、11名の幕府代官であり、

それは尾張や紀州などの御三家も例外ではなく、

大老や老中も例外ではない。

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その手続きは、誓詞を書く、その際、御用取次に

起請文」を提出する。

そして、内命を将軍や御用取次から受けると

御証文」(出張証明書)、「御手当金」(調査費用)を受け取る。

任務終了後、「風聞書」と呼ばれる報告書を将軍に提出し、

将軍はそれを読んで老中に渡す際は、

名前の部分を切り取って風聞書を渡す。

  御証文
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御庭番は、将軍或いはお側用人より直接命令を

受けたという。

 

ただ、直接命令を下すようになったのは、

11代・家斉の 頃からであるという。

お目見え以上になってからです。

それまでは「御用掛へ申し上げ」の形を取り、

将軍は、「お障子越しに聞く形式」であったという。

11代家斉から14代家茂は直接、御庭番に応答していた。

15代慶喜の記録は無い。

 

ちなみに御庭番の遠国御用の回数はというと、

11代家斉が天明4年~天保8年の間に30回、

12代家慶、天保8年~嘉永6年の間に13回、

13代家定嘉永6年~安政5年の間に2回、

14代家茂、安政5年~文久元年に1回行われている。

 

此の辺を、自分も将軍から命令を受けたという

御庭番の証言では、御庭番が御目見え以上になってからは

お尋ねの儀たびたびあり」と、されるようになった。

その際は、奥之番から将軍の御用あり、御駕籠台に出ろとの

指示がある。

それで御駕籠台に行くと、奥之番が指図して戸口を閉め

通行の無いようにする。

こちらは、台の下で平伏している。

そうすると、将軍が小姓も連れず一人で来て、

御用を仰せつかる。

 

江戸城表御殿

御駕籠台は右にある中央の階段の上にあった

中央に御駕籠台がある。将軍の御成りの際、

乗物に乗る処です。

大奥の下御鈴廊下の近くにある。
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旅に出る際の心得としては、御庭番の話では

姿は変えていきます。そして、2人で行くだけでは

勝手が判らないので、判る者をお供にしてく。

その際は、日本橋木原屋にいて飛脚屋の手代を

している者が、年来、その御用を勤めていました。

そういうものを供に連れて荷物でも担がせ、

上旅籠屋を泊りながら行くと上手く行きます。」

 

若し、任務の途中で消息が絶えても家が無くなることは

有りません

同じ御庭番の家から養子を入れたり嫁に入ったり

なにしろ御庭番筋の中で家の存続が図られます。

実際に川村家の日記では、大阪奉行に不正ありとみて

調べに行った2人組の御庭番の一人が正体不明の者らに

連れ去れてしまったという事が有る。

勿論、やったのは大阪奉行の手の者であることは

分ってるが証拠がない。

川村は供の者の機転で危うく難を逃れたという。

連れ去れたものの行方はその後も判らなかった。

危ない仕事ではあったのは確かでした

老中登城

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薩摩などのことを聞いて、赤字に悩む他の諸藩が

密貿易を見倣った事は言うまでもない。

因みに当時の石州浜田藩の藩主は幕府老中でした

老中といえば大大名に対しても「その方は」と上から

言えるほどの役目でした。

それを言いたさに小大名は老中になりたくて運動し

多額な金を使ってなろうとした。

政権の重要な官僚が関係してたのです。

 

そして事件が起きます

天保6年(1835)薩摩藩の舟が嵐で難破し近くの湊に

打ち上げられた。

船板には清国商人の印があった為に、新潟奉行は

幕府に報告し幕府は調査させた。

 

その時の御庭番の報告書である

「唐物の儀、長崎表より渡り候筈のところ、近年、異国人、

海上において日本の船と乗り換え候由、

多分は薩州商人どもの働きのおもむきにて、近年、仲買いと

申すものもっぱらこれあり。

これは薬種そのほか積み込み、いずれの湊へも廻船乗りまいり、

米金と交易つかまつり候おもむき相聞こえ、九州筋にては

長州の赤間関へ着船、それより北国筋 へ目差し乗り下り候ものは、

石州浜田、雲州辺の湊々にて少々抜け売りいたし、

能登輪島へ入津、同所にて薬品そのほか琉球朱もっぱらこれあり」。

 

明らかに密貿易船であると報告書にはある

天保10年(1839)に関係者の処分があった。

処分まで3年掛かってる。色々綱引きがあったのでしょう。

そして、新潟といえば譜代の越後長岡藩牧野家7万5千石の

領土だが、時の藩主は幕府寺社奉行という顕職に有り、

本来なら調べに立ち合うべき立場であった。

三手掛、五手係りといい、重要な問題は奉行らが評定所に

集まり協議するものでした。

しかし、長岡藩主は、密輸に関連しており金を受け取って

いたので欠席をした。

見て見ぬふりです。

 

之には伏線があり文中に石州浜田とあるように、

実は、天保7年に石州浜田の藩の御用達である

商人や藩の勘定方が処罰を受けている。

この頃は、何処の藩でも赤字の財政であることは普通で

藩士からの禄の借り上げと節約だけでは、

多額の借金の利子すら払えない財政破綻の藩が多い。

巨額の金が稼げる密貿易は見つかったら処罰されるのは

分かっていても禁じ手であっても手を出したくなったでしょう。

石州浜田藩は処罰されて、大名がしくじりを起こすと

必ず移封された所の今の福島の棚倉に移された。

山間の地で作物など取れなかった。

河井継之助

Kawai Tugunosuke.jpg

越後長岡藩牧野家といえば、河井継之助がいました

幕末に北越戦争をし官軍に抵抗した武士ですが、彼は、

文中の長岡藩主忠雅に後に見いだされ家老となり長岡藩を

洋式武器で武装化して激越と言われた北陸戦争で激戦を

展開し滅びた。

非常に優れた人であったらしいが時と場所を間違えて生まれた

為に起きた悲劇だったと思われる