ザビエル

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ここで度々登場してる通詞について書きます。

何故通訳と云わないのだろうという疑問からです

こうした職業が発生したのは、天文12年(1543)鉄砲が

伝来し、6年後の天文18年ザビエルがキリスト教を

伝えたが、その鉄砲とキリスト教を媒体として、互いに

言葉を理解できるものが言葉であり、互いの言葉を

伝える人が出て来た。

鉄砲鍛冶

この2つとも日本を大きく変えた出来事でした。

鉄砲など次第に改良され性能を良くすることにより、

それまでの戦の仕方をまるっきり変えてしまったからです。

一番の大きな使用法は集団で使用し敵に大きな打撃を

与えることが出来た事でした

 

代表的な通訳の人が秀吉とも親交があり

家康の知遇を得たロドリゲスであった。

彼は、後に難解な日本語を理解し、日本語の文法書を

作り、未完成ながら「日本教会史」も作ろうとした。

その彼の下の名は、Tcuzzuha「ツーゾ」と呼ばれ、

「通詞」という意味でした

ここから通訳の事を通詞と呼ばれた。

「ロドリゲス 戦...」の画像検索結果

家康の諮問に応え乍ら、キリシタン取り締まりや

ポルトガル人との貿易交渉などの懸案にも関係してた

 

徳川家が天下を取って30年出島での貿易を円滑に

するために通詞を雇い入れることとした

寛文11年(1671)阿蘭陀通詞の起請文に8名の

名がある。

「いよいよ油断なく阿蘭陀文詞稽古仕るべく候

阿蘭陀文字・南蛮文字何様にても繕いなく

有体に和解申し上ぐべく候事」

起請文  下に熊野牛王の印があります

どの役目に就くときでもこの誓約書が必要です

出島でのオランダ商館長との交渉相手はというと通詞である

その役割は幅広く多彩であり。かつ重要な役割を占めてた

互いの言葉が分かるのは通詞一人といってもいいのですから

訳する言葉というのは大変な重みをもってた

 

では、何語を通訳してたかというと、どうも当初はポルトガル語

であったらしい、後にポルトガル人が居なくなるにつれて

オランダ語へと推移していった。

寛文5年(1665)江戸に商館長が参府した時に、

彼ら江戸滞在中、拝謁や滞在に関して責任を持つ

大目付が同行した通詞に

阿蘭陀通詞はオランダ語を少し理解してない

速やかに学ぶように」と警告したくらいですから、

お粗末なものであったようです。

 

5代綱吉の元禄の頃、元禄9年(1696)には、

将軍の質問に対して通詞が通訳として機能しなかった

こともあり深刻な通詞不足に悩んでいた。

その頃来日してたケンぺルは、身の回りを世話してた

オランダ内通詞の今村というものを通訳として育て上げ

名通詞に仕上げたという。

これ以降、オランダ商館らの協力も得て阿蘭陀通詞が

集団でオランダ語を学習する機会が増え通詞として

機能するようになったという

 

因みにケンペルは、この今村を江戸参府の道中に

同行させ、旅には付き物の道中記を何処からか判らないが

本当は禁止されてます

手に入れてケンペルの自筆でマメに道中の出来事なども

書き込みを入れ自前の道中記を作っている。

では、その道中記を少し紹介します。

阿蘭陀通詞というと長崎の有名な橋である中島川を架ける

国宝となってる眼鏡橋を始めとして18橋は、長崎において

重要な役割を果たした橋ですが、これらの橋は通詞や

或いは僧侶や商人らの浄財によって作られたものです。

これは交易でなる商業都市長崎ならではのものであった。

一ノ瀬橋

特に一ノ瀬橋は唐大通詞である唐大通事陳道隆

によって架けられたアーチ型の橋でした。。

 

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ケンペルが日本に来たのは39歳の時でした

オランダ東インド会社の医師として、出島の商館付に

なり、元禄4年(1691)参府旅行をした

ケンペル江戸参府日記

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ケンペルは日記の中で「我々ヨーロッパの者は、

手袋をはめずに外出することは滅多に無いが、

同じように日本人は男女とも礼儀上扇子を持っている

旅行中彼らは、その上に里程や宿屋や日用品の値段などが

印刷してある扇子の一種を持ってゆく。

見えないでしょうが小さな字で宿名などが書いてあります。

そればかりではなく、これに代わって道中には沢山の

子供の乞食が居て、道中扇子と丁度同じような事が

書いてある小さな本を売っている。

外国人は少なくとも公然とこのような道中案内の

書物を買うことは許されない。」

江戸道中記

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子供の乞食というと別な仕事もしてます

諸侯方は勿論、御旗本も御家人もお役向きによっては、

道中に出れば、下に居れ下に居れと、小旗本や御家人の

先払いも多くは問屋場にて子供の乞食を雇い、

細い竹を持ち、下に下にと行き過ぎる。

田舎人はそれでも下座するも可笑し」とある。

江戸市中でしたら将軍の行列の時は平伏するが、一般の

大名の場合はしてません。

格好だけ保って格式を守るのです。

武士は体面が大事なのです

子供を雇って員数を付けるのですが、江戸時代の庶民の

子供は子沢山でしかも、裏長屋ではその日暮らしの人が多く

小さなころから自分の食い扶持を稼ごうとして働きました。

女の子なら近所の家の子守り、これは金は貰えないが

食事くらいは出ます。

男の子も寺子屋が終われば12歳くらいで奉公に出たり

或いは職人に弟子入りして働いたのです。

何しろ子沢山でしたから食わせるのは大変だったのです。