因みに幕府からオランダ商館に注文することもあった
10代家治はペルシャ馬を注文した。
その注文を阿蘭陀通詞はオランダ語で作成した
注文書を作り、オランダ商館に渡す。
商館はバタビアに行くオランダ船に託す。
通詞で行ったのは将軍の御用を務める御用内大通詞であり
注文の趣旨と馬の顔や体型を図示した馬相の説明を
した書類を商館に注文した
馬相図は4枚、注文説明書が1枚だった
ペルシャ馬
8代吉宗は馬に非常に執着しました
家康の世に戻ろうとした吉宗は馬に乗ることや武芸を
奨励し、自らも鷹狩をする事により範とした
馬を御す馬場も幾つも城内に増設し馬を御してたという
これらの馬場で家臣にも騎射させ、時には技を競わせて
良い成績の武士には褒美を与えてた
馬揃え
この馬好きを知ったオランダ人が「動物図誌」を献上した
立派な洋馬の図が8枚も有るのを見てペルシャ馬が
欲しくなった。
洋馬は、3代家光が寛永11年と15年に各1頭、4代家綱も
寛文2年に牡2頭、又、延宝4年にはオランダから体高5尺
あるペルシャ馬を献上された事を聞いてたので、自分も
兼ねがね大型の洋馬に乗って見たかったのでしょう
そこで享保2年にはオランダ商館長に輸入の可能性と
輸送できるかどうかを問い合わせてる。
オランダ側からすると実は関わりたくない事項であった
何故なら、西アジアや北アフリカでペルシャ馬を求め、
その馬を船倉の狭い所に閉じ込め、且つ熱帯地方を
ジャワ経由で10か月かけて日本まで輸送するのは
大変リスクがあった。
返事を渋ってる間に享保4年(1719)朝鮮通信使の
一行が日本に訪れ、その時、朝鮮曲馬を披露する
一同と馬が居たのである。
ここで観た曲馬に大いに吉宗は魅せられ、異例にも
菓子、吸い物、酒を与えれ各々銀50枚を下賜された。
吉宗の欲求はますます募り、更にオランダ側に輸入を
要求した。
それに対してオランダは洋式馬具を献上したのである
更には3月には吹上の馬場で乗馬と騎射を行った。
但し、銃は火縄式ではなく引き金で火打石を打って
発射させるものだったが、鐙の上に立って5から10mの
距離で4発打ったが1発も当たらなかった。
この当たらなかった原因としては、緊張してたのと、
乗った馬が洋馬ではなく唐馬であった事が有るかもしれない
8代吉宗
ともあれ吉宗の要求は収まるどころかますます強まり
享保8年の参府の時には幕府から洋馬の正式発注が
行われた。
サイズは地より鞍迄4,5尺から6寸までの牡馬3頭、
牝馬2頭の中型馬であった。
そして追記として大型なら尚よく、小型は「御用にこれなく候」
と厳しく注文を付けられた
在来の日本の馬は外国人から見るとどれもが
小さく見えたらしく、皆同じ表現だった。
ただ、江戸時代の男子の平均身長はというと大体160センチ
くらいなので、昔から言われるように馬の体高は3尺くらいが
妥当であるというのが定説だった。
日本馬はその代わり去勢してないので気が荒く、
外国人からは「物凄いヤクザ馬」
或いは「馬の形をした猛獣」などと呼ばれた。

