「江戸 矢上宿 絵」の画像検索結果

一行が長崎に近くなると、近くの矢上宿で通詞ら

迎えの人に迎えられた。

矢上宿

長崎の東の玄関口。

長崎街道と島原街道の合流点であり、

佐賀鍋島藩の家老諌早氏の知行地で長崎代官支配地と

境界を接していたところです。

 

諫早領役屋敷

長崎開港につれ佐賀藩主、諫早藩主、肥後藩主との

報告、連絡、紛争、願書の処理などが頻発したため

ここに設けられたという。

別名・矢上番所。

 

ここには役屋敷が置かれて、権限持った武士が

厳しく通行を監視し、民事・刑事・教育など民政に

ついても取り仕切っていた。

屋瓦葺きの建物で、頑丈な門があったとか。
馬・駕篭人足などが常時用意され、

造り酒屋・各種の店・鍛冶屋などがあり、

昔より、矢上の宿は近隣の村々の中心地として

栄えていました。

   矢上番所
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教宗寺

勝海舟やシーボルト、坂本竜馬たちが昼食を

とったことでも有名です。

長崎街道に面したこのお寺は、往来者の休憩所として

利用された。

1729年(享保14)に象と象使いが宿泊。

1826年(文政9)にはシーボルトが休憩・昼食を

とったそうです。

シーボルトは、ヨーロッパ風の食卓や椅子など、

出島にいるようなくつろぎの空間、町の人たちの謙虚な

態度に感心したと日記に記されている。

象とあるのは、8代吉宗の時代に来た広南象で

通訳官と象使い2名

京都御所の参内を経て殿上するために従2位という

高い官位を貰った。

象が御所に招かれたのは享保14年(1729年)4月28日、

そして江戸へと向かい、江戸についたのが5月25日、

1ヶ月近くかけて東海道を進んだことになる。

象を江戸に入れるにあたって、六郷の渡しを渡す時は

30隻以上の船を川に浮かべ、その上を渡らせたと

言われています。

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街道を象が通過する際の心得も出されてる

道を綺麗にして、象の飲む水を用意しておくこと
寺など鐘は突かないこと……象が驚くからであろう。
牛や馬は街道に近づけないこと……

                                  十丁以上離しておくこと
見物で騒がないこと、街道には縄を張ること……

                               家の中からでないように
街道にある「あおさ」(藻の一種)など汚れた物は

取り除いておくこと
犬や猫は繋いでおくこと
火の用心をしておくこと

浜離宮  中に象部屋とあり、そこで飼育された

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その後、江戸で吉宗の上覧が終わると、

象はしばらく浜離宮で飼育されたが、

年間飼料代200両、食料の世話、番人を殺す

などの事故があったため、民間に払い下げられる

ことになった。

享保17年(1732)に幕府直営の象舎が中野に造られた。

押立村の平右衛門、中野村の源助、柏木村の弥兵衛の

三名が世話にあたることになった。

周囲に堀を巡らした柵内に、足には鎖を繋ぎ飼育した。

彼らは知恵者であったらしく、象の糞が疱瘡の薬であると

言って売り出して大もうけしたという。

糞ではなく涙だという説もある。

また、象舎は見物人で賑わい饅頭も売れたという。

 

江戸時代というのは、医者も何時でも誰でもなれたが

薬も規制など有りませんので毒薬以外は何でもOKです。

効くか効かないかなどは問題では有りませんので

こうした薬?も大手を振って販売されました

薬9層倍と言われたくらいですから当たれば儲けは大きい

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この時期、江戸ではヒトコブラクダが紹介されました。

享保の象・寛政のクジラと並ぶ江戸三大騒動の一つです。

その「らくだ」は垂井宿から美濃路へ入り東海道を通って

江戸へ運ばれ、文政7年(1824)8月、江戸で行われた

見世物興業は大好評を博した。

両国広小路で行われ、其の見物料は32文であった。

蕎麦の代金が16文ですから、蕎麦2杯分です。

狂歌が有ります。

首は鶴 体は亀にさも似たり 千枚らくだ 万歳らくだ

若葉、笹を食べるが、好物は大根であったという。

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話は戻りまして

カピタン一行は、出島到着、検使の出役を得、

荷物は出島に搬入される

進物の等の残りがあった場合は、改められ蔵に入れられる

拝領した時服、夜具、手回り品、食事道具、その他の

日用品なども改められたのち阿蘭陀人に渡された

カピタンは奉行所に出頭し会計の決算が済むと

江戸参府の用の一切は終了である。