岩鼻陣屋
郡代・代官の任地により手代手付の人数は違う
慶応3年(1867)関東郡代には、江戸役所詰め11人、
岩鼻陣屋詰め15人の計26人
西国郡代には、江戸詰め10人、日田陣屋詰め10人、豊後四日市詰め2人
天草富岡陣屋詰め4人、日向富高陣屋詰め2人の計28人
遠江中泉には江戸詰め10人、中泉4人、三河赤坂4人、鹿島1人、
東上1人、細川1人の計25人
一般代官では本陣詰めと江戸詰めで20人が普通だった
長崎・島原
丸山は、着物が豪奢であったのが評判であったようです。

天領といえば長崎もそうです。
但し、ここの代官は大名を宛てていた。
徳川時代になると、家康も秀吉の政策を踏襲し
長崎を天領として、奉行を任命した。
当初は1人制であったが、寛永10年(1633)
竹中采女が悪政の咎めを受けて切腹すると、
幕府は2人制とした
更に、島原の乱がおきると、寛永15年(1638)から
1年通じて滞在させることにし、
一人は江戸詰め、一人は長崎詰めにし、
1年間の交代制にした。
は改革を行い、それ以降、2人制にした。
更に、島原の乱がおきると、寛永15年(1638)から
1年通じて滞在させることにし、
一人は江戸詰め、一人は長崎詰めにし、
1年間の交代制にした。
長崎奉行の役高は、明和4年(1767)から
役高千石、役料4400俵となった。
格式は10万石の扱い。
江戸城での席次は「諸太夫席」・芙蓉の間詰である。
非常に収入が見込めた役職でした
因みに陣屋と呼ばれた代官所の建物や維持管理は、
村の負担でした。
建物を作るだけでも100両前後、維持管理も含めると
決して少なくない額になる。
では、代官所を村に造られることを嫌ったかのかというと
反対に大いに歓迎されたのです。
むしろ天領になることを強く望み、誘致さえもしてたといいます
その大きな理由は年貢の安さでした。
天領ですと「5公5民」が普通ですが、大名領ですと6公4民、
又7公3民も珍しくなかった。
しかも、天領の場合、天候や水害などで不作の時は、
代官によっては年貢の引き下げも行われたからである。
これは年貢高が決まって後に天候不順などで不作が決まると
「引」と呼ぶ控除や収穫予定の7割が見込めない不作であった場合
減免措置を講じたりした。
あくまでも上級機関である勘定奉行の許可を得ての事ですが。
勿論、いつも行われたのではなく
寛永2年(1749年)の大飢饉で今の福島県瀬上の領内の
農民達は桑折代官所に年貢の減免を願い出たがかなわず、
16800余人の農民が一揆を起こした例もある。