さて代官の家の場合はどうでしょう。
小侍の2人に沐浴させ、深夜の零時に出来上がった棺に
(多分座棺でしょう)入れて午前3時頃棺の蓋を打ち付けた
翌日、元締め2名の下僚が金300疋、その他下僚一同で
200疋の香典が供えられた。
正午前に出棺、寺に仮葬された
翌々日には、薬種その他の支払で3両1分2朱を手許金で払う。
28日には一七日で茶飯、豆腐汁、平などを役所詰め2名
小遣い3名、門番、水主などに遣わし、位牌は寺に持参した。
翌月葬儀にかかった費用の清算。
病中入用と埋葬など一式で6両2分2朱318文だった
用人の衣類払い代2分2朱、書物払い代2分2朱670文、
大小払い代2分2朱、小道具払い代432文、筆立て払い代14文
有銭41文等、合計1両3分2朱1貫671文を引くと
4両2分261文だった。
その不足は手許金から払った。
寺に1両1分で墓も作ってます
更に香花料百疋、位牌造作代400文。
後に1回忌、3回忌も行ってる。
用人ですから家の柱に当たる役ですが、この当時は、
代々勤めてるという用人は大旗本を除き居ません。
普通は年季奉公です。
今回の用人も奉公して僅か1年であるにもかかわらず、
実に手厚いもてなしでした
なかなかできるものではないと思われる
自家菜園は、本陣の周りを塀を巡らし、殆どは畑であった
建物の敷地が471坪だったが、その2倍は有りそうなもので
種まきをしたという日記では、牛蒡・三月大根・小麦、水菜
遠州インゲン、ゴマ、ホウレン草などが記されてる。
ほうれん草が植えてる理由としては、「健胃の熱を通過させ、
酒毒を解する。長患いで便が渋滞して通じない時、
通じをよくする「和漢三才図会」とある。
此の代官は大の酒好きの上病弱でよく臥せっていて、
吐血するなどをしてたので、その為にほうれん草を作ってたみたい。
この時代、武士は庭に菜園を作り野菜や果実を植え、
自家用は勿論互いに作物を贈り合ってたというから、
珍しい事ではない。
次はお世話になった方への祝儀贈答です。
これは欠かせないものです
最初に師匠宅に訪問、白縮緬1反、横麻裃地、鰹節1箱を贈り
代官の4人の元締に金百疋づつ(金1分)2,3万円。
翌日師匠の元締めが旅文庫と真綿持ってきたので
お返しに鰹節1箱を上げた。
師匠からは手紙を添えて疳の虫の薬である奇王丸2包と
横麻裃1包が贈られてきた
鰹節は贈答品の定番だが、真綿はその格上の品でした。
そして登城し老中から「支配地へ引越につき、御暇下置かれ、
拝領物仰せつけられ候旨」躑躅の間で時服を拝領した。
翌日は勘定奉行宅に行き暇乞い、
各所に行き暇乞いで忙しく、勘定奉行川路聖謨からは
歌を戴いている。
そしていよいよ任地への旅が始まった。
3か月かけてやっと赴任の旅になったのです
しかし、勘定奉行が川路聖謨だったのですね。
日田代官所の手代の家に生まれ江戸に出て御家人株を買い
朝暗いうちに家を出て要所の家に挨拶に行き、夜星が出るころ
家に帰る。
毎日そうした生活をして何とか勘定所入りを狙った。
コネがあるとか親が勤めてるとかしてると問題無かったようですが
九州から出て来て御家人になったばかりの川路には何もありません
要所の役人の所には毎早朝大勢の番入りを狙う若者が沢山来てます。
役人と挨拶を交わされることも無くただ顔を見せて帰るのです。
顔を覚えて貰い、若し言葉でも掛けて貰えれば上出来です
運よく拾い上げて貰えれば川路のようになれる可能性があるが、
殆どはそうではなかったのです。
厳しい就活でした
