江戸城の話しが出ましたので主人公による江戸城探検。
日記では「しらぼし献上にて御城拝見なり。
定府衆も見候人少なく御座候」と江戸で代々勤務してる
定府衆でも無いんだよと自慢してる
しら干しというのは、干し鮎の事で大野川産ので臼杵藩が
定期的に幕府に献上してる品です。
大体こうした献上品は、国元では食べられませんのが普通。
内桜田門とも桔梗門ともいう

内桜田門は江戸城三ノ丸の南門で桜田郷の地名から
外桜田門に対して内桜田門と呼んでいた。
また江戸城を最初に築いた太田道灌の泊舟亭があったと伝えられ、
その門の瓦にあった道灌の桔梗家紋が門名の由来となり、
現在の桔梗門の鬼瓦にも桔梗紋が刻まれている。
主人公は、この桔梗門の事を何故か吉凶門と日記に記してる。
内桜田門(桔梗門)の警備
鉄砲20、弓10、長柄槍15、持筒2、持弓2組で
6万・7万石の譜代大名が交代で受け持った。
外桜田門と区別して内桜田門と呼ばれた。

午前2時に家来を起こして食事、午前3時に献上品を
持参する御留守居役宅に行き、午前5時に屋敷を出る。
御留守居役は駕籠に、主人公は徒歩である。
外桜田門を通って水野様長屋の間で夜明けを待つ。
日記では「待つ間の寒き事妙々」とあるので11月といえば真冬
寒いのは辛かった事でしょう。
他にも鍋島家や黒田家などの御留守居役が同じように
献上品を持って待っていたという。
本丸玄関
日記には本丸玄関から入って献上品を納めた様子が描かれている。
「御本丸玄関より蘇鉄の間に詰め、中の口より献上物皆皆受取
御坊主案内に来り御書院に参る。
尚、此の本丸玄関は前以て拝見のお願いの書面を提出すれば
見ることが出来たようです。
主人公もそうしてます。
『今日御玄関拝見之事申置候故」
更に桔梗門を入った所にある広場の事にも触れ
門外には札が有り「御供頭・棒鼻・御徒士・御道具(槍など)
は是まで」とある。
門内には乗物と乗物を守る供侍だけで、殿様は歩きとなり
玄関までは入れるのは御刀番・御小姓・草履取りである
そして供侍の為の8,9間の長さの腰掛があるが、
それらは尾州家の家来が仕切っていて、大名家の家来は
皆土間に布物を敷いて座ってるという。
御三家筆頭の貫禄なのでしょう。
しかし将軍には誰もなってないで、将軍継嗣の有る時
8代吉宗或いは14代家茂といい
悉く紀州との争いには負けてしまったのです。
「城中御玄関このあたりのよし」
但し何でも例外はある。
御三家でさえ駕籠から下りて玄関前から歩いてきます。
只、宮門跡は、駕籠を直接玄関に横付けできます。
そして、浅草・築地などの本願寺が来ると、本来であれば、
准門跡なので玄関の少し手前で下りて歩かなければならない筈が、
実際は、「そこまで、そこまで」といいながら、実は駕籠を玄関まで
誘導して門跡と同じ扱いをしている。
要するに阿吽の呼吸です。
勿論、彼等は阿弥陀様のお導きで極楽往生間違いないです。
西王母
大広間公方様お逢いの間、西王母の絵の戸を開け、大廊下
浅野様刀傷など見候て、日光御三家の詰所桜の間
武芸上覧の所 それより柳の間は3間なり、此の柳の間より
大広間の方に出候て蘇鉄の間に帰る惣鉢金貼り付け大層な
物じゃ、松の間菊の間はお役人の詰所ゆえ・・」
詳しく書いてますね。
忠臣蔵でお馴染みの松の廊下の事も浅野殿刀傷とあるので
まだそのままになってたのでしょうね。
