江戸時代というのは格式によって何事も決められて時代だった

格式とは幕府が定めたものですが、

これから取り上げる事も格式に準じてのものでした。

年末になると12月1日に寒中見舞いとして各大名は訪問し

挨拶を交わしたようです。

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寒中見舞いとしては、今のお歳暮ですか。

鴨・雁、雉、鶴などの鳥類、

赤貝、貝柱、牡蠣、玉子、蜜柑、甘酒、菓子、

御菓子では、最中やかすていら、落雁でした。

 

この中で鶴が有るが、鶴は最上位に位置するもので

将軍が下賜するのが家の格式を表す。

前田家や御三家、御家門がよく拝領します。

臼杵藩は、それに該当しないのが鶴の料理は43回ある。

幕府の行事としては、正月に鶴の吸い物が定番だが、

臼杵藩では、正月には見られない。

 

しかし、元治元年には、鶴の包丁式とあるので、

これだけみても武家の鶴に寄せる思いというのが感じられる。

 

冬至には臼杵藩では、

生揚げとあんころ餅を食べてる。

文化11年の日記に「冬至につき御雑煮」とある。

御雑煮は、今は正月の料理として出るが、当時は、

もっと幅広く色々な節目に出てきた。

 

又、文政10年の日記には「今晩,亥の刻寒の入りにつき

お客様へ赤の餅下さる」とあるので、赤い餅もあったらしい。

他の料理では、御汁粉、埋豆腐、おはぎなどが用意されてる。

埋豆腐

埋豆腐の写真

 

 

 

 

 

 

 

 

臼杵藩ではこの時も織田家・酒井家を始めとして合計6家を訪問した。

大村家では今日の相客として6家の方々と同席となった

家来は歓談の間は休息所で待ち夕刻午後5時頃皆さんお帰りになる

日記には「中々諸家様御家来と向かい合い候に付き気が張る。

1番が着物なり、その次2番は大小なり、今日など5つより少なき

衣裳は此れ無く・・」と衣裳や道具を気にしている。

これは御帰りの順番が江戸城での詰間が皆同じ柳の間であり

しかも、その部屋の中で幕府が決めた座る場所、畳が決まっていて

しかも畳何筋まで決まってるので、その席順で御帰り願うので

主人公は必死に順番を決めているのです。

 

友達というと普通は今日のように同格と群れるのが普通で

江戸城での留守居役のグループも又それに準ずるものでした。

しかし、寒中見舞いというような非公式の場であっても幕府が

定めた席順が物を言うのです。

「江戸城玄関 絵」の画像検索結果

因みに自分が詰める席の事を殿席といいました。

不慣れな大名とか新入りの大名などは御殿の玄関を上がっても

自分の殿席が何処に有るかなど判らない。

大体が親類の大名が付き添います。

もし何か起こったらとばっちりを来るのを防がないといけないからです

 

そこで活躍するのが出入りの奥坊主で大名を案内する訳です

玄関まで御出迎えです。

羽織にはその大名の家紋が入っていて判りやすくなってる。

しかも中には裏表に別の家紋を入れて、1枚で2家の御用を

果たすように出来てるリバーシブルの羽織もあったという。

 

又、大名の控室など御三家・御家門の大名とは違い無いので、

大名の休憩、食事、着替えや具合が悪くなった時に、

坊主は自分の部屋を休む部屋としても提供した。

 

弁当を食べる時は、坊主の部屋と雖も本来は食事をする所では

無いので「勤めたる態」にして、休憩したり食べたりする。

従って、自分の分でだけではなく、坊主の分の重箱を持参し

分けます。

その他にも、大名の数少ない御供が蘇鉄の間付近に

待機しているので、主君と家来との連絡に坊主を利用したり、

御普請や人事異動などの殿中の情報を得たりもある

その為、大名は坊主の世話が無いと殿中では身動きが

出来なかったのです。

 

しかし、この坊主の部屋に出入りすることは、当初から問題に

なっていたようで「坊主部屋たとひ直参たるといふとも

入るべからず」というお達しがでています。

 

城内の御坊主の部屋は、大大名で畳1枚に年に2両、

小さい大名ですと金2分払っていたという。

畳の切売りです。

使用時には仕切を立てて使用者の分る名札を出ていたと云います。

金持ちになる訳ですね。

坊主丸儲けです。