関所

「天領 絵 江戸」の画像検索結果

いわゆる天領、公文書では「御料所」とか書かれ

大名や旗本の領地は「私領」といわれた。

現代でも天皇家の牧場を御料所とか言われてます。

御用邸とかもありますね。

何れにしても「御」という言葉は、貴人に対して

つかわれる言葉であったようです。

飛騨・高山陣屋

代官とは、天領の年貢の収納や民政を担当しました。

小禄なれどお目見え以上の旗本です

以上というと又、旗本と御家人の子供同士の喧嘩を思い出します

年中顔を合わせると喧嘩をしたそうで、互いに罵倒し

旗本を「章魚」と呼び、御家人を「烏賊」と馬鹿にしてたといいます。

 

家康の頃は徳川家天領は250万石だったが、8代吉宗の頃には

大名の改易によって生じた領地で450万石にまで増えていた。

天保9年(1838)には418万石、そのうち代官支配地は328万石

その他は大名預かり地と遠国奉行支配地であった。

 

天領の地を監督するために、300~500石くらいの旗本を

選抜し赴任させた。

当初は、70人位であり、不正も有ったらしく、

5代綱吉の頃に粛正し死罪や免職が34人ほど出たという。

 

幕府は度々代官に対して心得や教令を出し、民は国の基本であるので

民の苦労に心をかけて飢えや寒さなどの心配をかけないようにせよ。

衣食住が贅沢にならないように心掛けよ。

何でも手代任せにならないようにせよと質素な生活態度を求めてる

「昇平夜話」では、「百姓は困窮にしないように養うことが必要で

生活が楽になり過ぎると農事をおろそかにし、生業を変えてしまうものもいる

困窮が甚だしくなると離散してしまう。家康は毎年代官衆や支配所に

百姓どもが死なぬように、生きぬようにと心得て、年貢の収納を

申し付けるように命じていた」とある。

生かさず、殺さずの方針です。

 

代官は途中までは世襲制だったが、享保年間頃になると

選考試験制度が始まった。

ただ、試験だけで決まるものではなく曖昧なものだった。

学問吟味の試験と同じです

 

勘定所での代官採用試験がある。

筆算試験。

筆算吟味というのは、勘定所が行う入所試験であり

算盤と算術の試験があった。

勘定所で見習いなどをしてれば判る問題です

大体が勘定所勤務の武士は子供を小さい頃から出入りさせ

顔繋ぎもあったようですが、世襲になってました

奉行所の与力や同心らと同じです

 

代官採用の時の問題がある。

「高57万3千石を3斗7升俵に直し何万何千俵に

相成り候哉」

 

或いは、「年貢米百二拾駄を河岸場まで14里運送す。

壱里につき駄賃銭16文、この賃銭如何程と問ふ。」

 

いずれも勘定所の実務に関しての基礎知識があれば

解析は容易の問題であり、勘定所の実務に通じた

者が有利になる。

 

 

幕末の頃には40人程で、関八州は12人だが、

殆どが江戸の馬喰町や本所亀沢町の拝領屋敷で執務した。

宝永7年(1710)に記録では、関東代官が26名、上方代官43人の内

大半が江戸に居住し仕事をしてた。

江戸の私邸や拝領屋敷を留守役所とした。

高山陣屋

郡代は700俵取り10万石以上、

代官は150俵取り5万石程度を管轄していた。

郡代は、全国で4箇所。関東・飛騨・美濃・備後であった。

  代官の赴任行列
メタボンのブログ 

代官任命の際の儀式を寛政の改革で定信が有能な人材を

登用し儒者も任命してるが、その中の一人が日記に残してる。

 

代官の任命に当たっては通常は役職からの転任であれば

その上司、もし小普請であれば支配から、勘定所に

5つ半(午前9時)に出頭すべきという御召状が来る。

 

但し、今回は昇進ではなかったので時間が違って

5つ半(御前10時)だった

ちなみに人事の任免の際、「御用状」がきます。

「御用儀被為在候条、何日登城可有之」という御用召の紙が来ます。

もし、その紙の色がであったら鼠色であったらでした。

又、午前中のお召は午後であったらであったという。

判りやすいですよね。

午後なら覚悟して心の準備が出来ます。

そのかわり異動に伴う辞令というのは無いのです。

 

今回の御召しは時間が少し違いましたが、これは、

昇進ではなく横滑りのようなものであったからでしょう。

ただ午前中ですから良かったですね