悪代官という言葉が頭に浮かぶのはテレビ映画の影響です

「水戸黄門」何か直ぐ思い出してしまうのは年齢なのでしょう

[越後屋 ,そちも悪よの~~」「いやいや御代官様ほどでは・・・」

暫く使ってなかったけど、ここならピッタリです

 

実際は、悪代官は江戸初期には多くいたようですが、

丁度水戸黄門の頃ですね

綱吉の治世の頃一掃されて以来、有能な行政官として活躍した

 

代官は、江戸初期を第1期とすると、この頃は広範な権限を持ち

新田開発等にノウハウを持った地方(じかた)巧者が多く

出身も土豪や豪商など様々でした。

世襲が殆どでした

江川英龍

しかし世襲でも幕末まで続いた家もあります。

韮山の江川家がそうであり、兵学者でお台場の砲台を築き、

又、日本で最初にパンを焼いた人でもある。

兵食として考えたようである

江川家などは、昔から続く家で5千石を所持してたといい、

或いは京の小堀家も同じく世襲の家でした

小堀遠州の子孫です。

江川家

第2期は幕府の職制が整備され代官の地位が確立され、

5代綱吉の代になると信賞必罰で代官への監察が強化され

年貢滞納・流用などの罪名で遠島や死罪に処せられた

これを機に地に繋がりのない人間を代官に起用。

 

第3期は8代吉宗で口米制から年間予算の形に変更、

又、大岡越前を頭とするプロジェクトチームを発足させ、

勘定所と競わせるような形を取り成果を上げた。

行政官として活躍した。

「大岡越前 絵」の画像検索結果

行政官といえば大岡越前などは有能な行政官であり、

町奉行といった司法官ではない。

その証拠に法律書である「御定書」や町火消の創立など

優れた行政手腕を見せてます。

だから吉宗は重用し旗本から大名にまで取り立てたのでしょう。

 

第4期は11代家斉の頃で、飢饉が相次いだ時代で東北地方が

特に農村の疲弊が甚だしく、老中松平定信は身分にとらわれず

有能な人材を登用し、名大官といわれた人が輩出した

その後12代家慶の代は天保の改革で従来の政策を

転換しようとしたが、江戸人返しの政策などは代官らの

強い反対により実施できないなどし、その内水野忠邦が

失脚してしまった。

その後は明治期に入るわけです。

 

江戸中期以降の代官の在任期間は平均14,6年。

そして転勤場所は、平均2,54所

転勤回数は最高で9回、8回が3人、7回が5人。

 

1か所の平均在任期間は5,7年だった

最長期間は50年を超える代官もいた

「江戸 美濃郡代 ...」の画像検索結果

56年の最長の代官生活を送ったのは中期登場の辻富守

祖父は美濃郡代・勘定所吟味役を務め、父も同じく美濃郡代、

親子3代の代官一家でもあった

 

辻は元文元年(1736))陸奥国の塙代官を皮切りに各所の

代官をし、最後は80歳だったが先祖ゆかりの美濃笠松の代官、

そして寛政3年(1791)江戸城2の丸留守居、布衣を許され

米寿を迎え老衰のためお役御免になり間もなく没す。

 

「よしの冊子」によれば、「美濃代官仰せつけられ候由、82才の由。

大方御郡代に相成るであろうこと沙汰仕候由。

才は御座なく候へ共誠に引き負いもこれ候。

無難に57歳とやら相勤め候由。82歳にて当年も妾出産仕候由。

 

元気なものです。82歳にして子を作っている。

仕事の方は、才は無くても無難に勤めて可もなく不可もなく

長きを勤めて、布衣(郡代)になり最後を飾った。

とあるが、実は無難ではなかったのです。

 

江戸4大飢饉の一つである東北を襲った宝暦の飢饉の時、

彼は、出羽国尾花沢代官であった。

大凶作となり、米、雑穀の類の価格が急騰、宝暦4年当時の

人口約1万9千余人の内、救済を受けた者7千5百人余、

餓死者は、3千人と記録されている。
領内から出奔した男女5百人弱、主を失った空家が目立ち、

また疲弊していたところに労力が足りず、さらに宝暦6年も凶作、

7年も凶作となり田畑は不毛の地と化したともある。

 

この惨状を見た彼は居たたまれずに江戸に米蔵を開放し

籾の放出を具申した。

更に翌年も洪水もあり更に具申した。

この意見書に対して真偽を確認するために勘定所から

役人が派遣され巡見の結果、彼を含めて代官5名が戒告の上

4か月の大名預かりとなった。

後に許されて復帰したが、この苦い経験がその後を無難に

役目を送らせたものかとも思われる。

祖父や父と同じく郡代ではなく代官であり最後だけ郡代となった