手水場
吉原の便所というと、吉原の便所は、廊下を隔てて
7丁の土手よりも高く、南楼の雪隠は2階に続き
百歩の御殿山よりも高しとは、知る人ぞ知る世界の洒落」
戻ってこないか、遅くなるのが通例で、運よく、戻ってきても
がっついたところを見せずに、寝てた振りをしているのです。
それくらい、遊女の便所は長いのです。
吉原などは、気に入らない客や或いは、指名が入って
掛け持ちで客に応対する場合など、部屋から部屋へ
回って仕事します。
これを「まわし」といいます。
大体、帰ってこない場合がありますが、
見栄を張って催促しません
悠々と煙草を喫ってるふりします
遊女の着物や衣装を裁縫する女性もいます。
『お針」といい、民間の家ですと「針妙」といいました
「針妙をお針といって叱られる」
吉原は、当然、衣裳が重要な面を占めます。
衣服の繕いが非常に多かったようで、そして、
一番大変であったのは布団の取り扱いでした。
吉原ですと御披露目で分厚い布団を100両くらいかけて
白木屋などで特注で頼んでました。
3枚敷いてあるので上がるだけでも大変です。
季節になると、布団の皮を取り替える仕事です。
室の様な布団部屋に籠って、皮の入替です。
夏なら臭いと暑さでむせ返りそうになります。
でも、取り替えた皮は少し痛んでみても、
お針の物となるので、皮を洗い直して、
それを又使うとか売りに出して使い生活に充てたそうです。
文使い 代筆屋、昔恋文横町などといった町が有りましたが
こちらは、遊女の代筆をし、或いは、その恋文を運ぶ人もいた
もちろん自分で恋文を書く遊女もいた
吉原や品川などの遊女は、これ等の飛脚を
使いませんでした。
彼女らは、多い人で1日に10通くらいは馴染の客に
手紙を書いていました。
暇は有ります、
夜見世の営業が始まる午後4時までの時間
客として来て貰うために、せっせと書いていたのです。、
届けてくれる町飛脚があった
では、何故町飛脚を利用しないのか
それは、客が妻や旦那に分らないようにする為で
その為、チリンチリンと音を出して家に配達に行く
町飛脚には頼めなかったのです。
当然、料金は割高となります。
当時、それを専門に吉原などをお得意様にしていた
運び屋が居ました。
遊女の手紙
名は、「ともへや五兵衛」有名な店で、毎日、若い者が
来て手紙を集めて帰るのです。
渡す時も神経を使い「文づかいエヘンエヘンが合図なり」
或いは、「文使い息子をはすに招き出し」
直接渡しませんといけません。
かといって大っぴらには出来ずに、道端で小便するふりして
家の中を覗いたり、道を聞くふりして渡したり作戦が必要
「不味い事束ねた文を出し」
しかも沢山ある手紙の中から1通出すようなものなら失敗。
あらかじめ1通抜いて置いておくことも肝心です
ここまで行ってないような時は
「盗人のようにうかがう文使い」
「文使い 道など聞いておびき出し」
色々な苦労が有って、割高となるのです。
当然、それ以外にも若旦那からのチップが有ります。
失敗の時もある
「文屋どん もうござんなと 女房言い」
ばれてしまい「二度と来るなと」女房に言われた
しかし、これで諦めてはいけません。
次の手を考えるわけです
普段からお誘いの文は出しますが、特に多くなるのは
紋日の前で、客が来ないと自前で金を出さねばならない遊女は
必死です。
運び屋の商売繁盛の時です。
女性も旅の途中で江戸で吉原見物をしてます。
幕末の浪士として有名な清川八郎の叔母清野の感想。
「両国柳橋の梅川屋長兵衛という船宿に上がり
料理を戴く。
なにやらいずれも旨き事に御座候。
それより吉原に行く。田川屋という浮世風呂と
申す家に行き候。
その綺麗・風雅の模様云うばかりなし。
茶だし、それから湯に入り候えば、浴衣を持ち来たり、
鏡台2つ、鉄漿化粧道具残らず有り。
衣桁に手拭掛けあり、その綺麗云うべきなし。
湯の綺麗さ尚書くべき様なし。」
そして出た料理である。
1菓子 小らくがんのようなもの
1吸物 鯛腹背
1唐物
皿鉢物 蒲鉾、鮑、はな湯の花
1同 すきみ砂糖煮 味噌の物 むき牛蒡 生姜
1皿鉢 いいの煮付 ささげ
1同 鯛の皮 次に蒲鉾 椎茸 竹の子
1吸物 穴子 薄竹 青味
1皿鉢 刺身 茄子 大根おろし 辛子に砂糖味噌
1奈良茶 飯 吸物鯛 香の物(胡瓜・茄子)
1茶 菓子 白羊羹 煎餅
そして、吉原へ行きます
それより吉原へ参り、仲の町の女郎の揚屋入り、
又、見世の様、聞きしに勝りて見事。
吉原の美々しき事、話よりはおそろしく、
其れより、又、舟に乗り、梅風呂に上がりそれより帰る。
江戸の船宿は、非常に多くこの時代であると
全部で600くらいあったのでは無いかと思われる。
その内荷物の輸送をしていたのは1割で、
あとは遊山のものであった。
吉原へ行くのに使ったり、宴会をしたり、
又、男女の逢引にも多く使われた。
しかし、船宿にしてはかなり豪華な料理である。
「いずれも旨き候」と満足している様子が判る。
詳しくは書いてないが接待されてのようでした。
清野は、田川屋に案内され、
浮世風呂に案内されている。
それを「その綺麗・風雅さ云う事無し」と絶賛している。
桜も行けば梅も見る。
梅は古来から愛されてた「万葉集」では、桜を詠った歌よりも多い
参考までに、「万葉集」では、最多登板の回数を誇る「萩の花」は、
141首もあり2位の梅の118首を引き離してる。
桜はその下の順位でした
江戸っ子は梅をこよなく愛しました。
「守貞漫稿」でも、江戸は意気を専らとして美を次にして、
風姿自ら異なり。是を花に比するに艶麗は牡丹なり、
優美は桜花なり。
粋と意気は梅なり。
しかも京阪の粋は紅梅にして、江戸の粋は白梅にして可ならん」
江戸っ子は梅、特に白梅を好んだのです。
「江戸砂子」も花中、梅を第一とす。とある。
梅を漬ける時の塩加減のことを「塩梅」という。
中国の四書五経の一つで詩経にある言葉である。
「和名抄」には、塩梅の事を梅酢としている。
物事の加減であるとか、調理の際によく使われる言葉でもある。
梅屋敷
さて主人公たちは蒲田の梅屋敷に行きました
天保14年(1843)2月4日朝から少し寒かったとある。
同僚3人とそれぞれの家来を連れて、午前10時に出発し午後1時到着
約16キロくらいなので1時間当たり6キロのペースらしい。
ゴッホが広重の梅屋敷を模写したほどの地でしたが、あまり良い
印象は持ってない。
「一段風流にて俗客には向き難き風」としてる。
しかし折角来たからにはと酒4合取り寄せて飲み会。
「皆様うまがり候、限りなく候」又「梅の匂い風にて妙」
酒を飲んで梅の香りを嗅いで帰ったようです。
楽しみはこれからだったようです。
帰りには嫌でも品川通ります。
歓楽街をそのまま通り抜けるとも思えません。
早速同僚が馴染みの店・駿河屋の女に捉まり、
家来どもは食事に行かせ、一行は茶屋に上がり込んで
早速飲み会です。
その日は役人が通るので午後3時までは往来遠慮の日だというが
そんなの関係の無いみたいで遊び客で賑わっていた
馬の繋ぎ場には何処の藩か判らないが馬が7,8頭いた。
更に同藩の者4名にも出会い、帰りは後になったり先に
なったりしながら帰ったという。
結局物見遊山は、梅は先の蒲田の梅屋敷、桜も上野、三囲
御殿山、染井、飛鳥山など江戸の桜の名所といわれた所は
全て観たそうである
勿論、寺社参詣も怠りなく済ませ、歌舞伎や町の大道芸
猿回しに至るまで江戸の町を歩きました。
流石に当たり前ですが健脚です
江戸の夏の夜空を飾る両国の花火も現地ではなく、
屋敷の物干し台から見たという。
7月24日には「今日は佃島沖にて打ち上げこれ有る由」
「昼は傘の図49本、夜は92本打ち上げ観候」
何でも見てやろう精神でもって精力的に1年2か月の間を
あらゆる名所を満喫したようです。
最初で最後の江戸、生涯の土産話となった筈ですが、
明治維新を迎えたとすれば、70歳になった頃、
昔30年前に行った江戸を懐旧の念で迎えたのでしょうか。
それとも維新を見ずに生涯を閉じたのかは分かりません。





