「江戸 日田 陣屋...」の画像検索結果

幕末の有能な官吏であった川路聖謨兄弟の父は、

日田代官の有能な手代であったが、息子達を世に出そうと

手代を辞めて江戸に出て御家人株を買い、息子たちに

将来を託し、見事息子達も立身出世を果たした。

 

御家人の株というと値段は様々で100両くらいから300両くらい

隠居料込みで買えば相手もすぐ身を引くが

川路は、株買取の予算の関係であったのか直ぐに相手が

隠居しないような買取であったので、株を受け継いでも

入ってくる禄が自分の所に入らないような契約であり

当然、新婚であったが、貧乏暮らしになり1間に他の家族と

折り重なるような状態であったいう。

最初の結婚の時です。

 

ですから兄弟2人に同時にそれぞれに株を買ったのか

判らないが、やはり金はギリギリの状態であったようです。

それでもそれだけの金を貯めて江戸に出たという事でしょう。

日田陣屋

「日田陣屋 絵」の画像検索結果

さて不良手代を抱えた代官はどう対処したかというと、

暇を遣わす程度で手代奉公構い(手代として永久奉公不可)

まではすることが出来ずにいたようです。

 

代官たちも心中穏やかなざる物があり、そういう手代がいる

代官は「段々おはち廻り候につき薄氷を踏む心持」であるとある

実際に問題の手代から駕籠訴にあった信濃国御影の代官も居て

「大いに心痛いたし色青ざめ候」であった。

 

幕府はこうした悪しき慣習を無くそうと通達も出しました

従来の本給に加えて職階に応じて15両・10両と加給し

更に様々な名目で金2分・3分と遣わし十分な手当てを

することで無くなると思ってたのです

ところが実際はそうはならなかった。

 

実際に行った例もある。

「よしの冊子」によると、関東代官が検見に行った際に金5両を

手代に遣わしたが、それでもやっぱり他から貰ってしまう。

結局何かやってやると20とか30両は直ぐ貰えるからであり

手代も「中々5両くらいにてはこたえられ申さず候」と本音を

洩らしてる。

 

此の根源として農民にも問題があり、諸事願いごとがあると

直ぐ金銀を出すという発想が原因としてる。

 

実際の例として慶応2年(1866)維新の2年前ですね

信州伊那谷七久保村が出願した破免検見(予定の7割以上を

見込めない収穫であった場合の減免処置)の時である。

「 信州 飯田城下...」の画像検索結果

この時村は総出で4里以上離れた飯田の城下まで行き、

10人余りの役人の為に山海の幸を買い求めに行ってる

 

当日費消した酒は2斗1升7合、銀が108匁、更に査定と

接待が済むと謝礼として10両2分を贈ってる

14両を使い、その結果例年700俵前後の年貢が495俵に

減ったのですから安いものであったでしょう。

「江戸年貢 絵」の画像検索結果

こうして役人を接待するのは村役人の仕事です。

実はこの村役人も又不正をしてるのだという。

村の側に立ち便宜を図る立場の村役人は、接待費用として

10両集めると5両を使い残りの5両を懐に入れてしまうのだという。

名主や手代との癒着で生じる金というのは莫大なもので

代官が支配してる5万石の支配地で農民が年貢以外に

負担してる金は500から600両だという

その内200両は陣屋の修繕費用などだが、残りは手代に入るか

村役人たちの酒食になるのだという。

 

実際にこうした癒着が大阪の町奉行により摘発された例もある

検見に際して事前に年貢の予定高を漏らしたり、破免の

必要の無い所で破免にし便宜を図ったからだった。

 

これにより代官、手代32名が遠島及び追放になり

贈った方も庄屋ら86名が追放や過料になった。

しかし、こうした摘発は稀であったという。

「夢酔独言」の画像検索結果

勝海舟の父・勝小吉の「夢酔独言」にも手代の素行の悪さがある。

「兄貴の役所詰めに久保島という男がおったが、

そいつが俺を騙して吉原へ連れて行ったが、面白かったから

毎晩毎晩行ったが、金が無くって困っておると、信州の

御料所から御年貢金が7千両来た。

役所へ預かりて改めて御金蔵へ納めるのだ。

その時俺に番人を兄貴から言いつけられたから、

番をしてると久保島が言うには「金が無くっては

吉原は面白くないから、百両ばかり盗め」と教えたから

俺も「もっともだ」と言って千両箱を開け2百両取ったが

跡がカタカタする故困ったら、久保島が石ころを紙に包んで

入れた故、知らぬ顔で居たが、2,3日経つと知れて、兄貴が

怒ったが、色々詮議したら俺が出したと役所の小遣いが

白状しおった故、俺に金を出せとて兄貴が責めたが、

「知らぬ」とて強情を張り通したが、誰も知らぬ顔で収まった」

 

信州中之条支配所では年貢は金納となってたので

現金を行列を組んで江戸まで運んできた。

それを盗んだわけですが、此の文中にある久保島というのが

その後も越後国水原に勤めたが、江戸役所で詰めてるのが

名が残ってるので、その後も役所に勤務してたという。

 

「信州 飯島 絵」の画像検索結果

では反対に村で最も頼りとなる役人とは。

文久3年(1863)信濃の国飯島陣屋の出来事がある

代官の交代があった。

そこで手代も代官に付いて行くこととしてたが、陣屋の支配地

49の村からの嘆願があった。

総代からの願いでは代官付き手代2名の手代留任を求めてきた

前代未聞の事で代官は却下したが、その後代官が代わり

再度嘆願したのである

 

その嘆願理由というのは、一言でいうと村々の経済的負担を

軽くしてくれる役人こそが村が求めている役人であった。

経済的負担とは、訴訟や御用、召還などにより村から江戸へ

出府する費用や滞在費、工作費、雑費などは

全て村の負担であり、その費用は巨額であったからである

「江戸 唐丸駕籠 ...」の画像検索結果

例えば、江戸への召喚というと犯罪人の護送の問題がある。

村で起きた殺人事件の犯人を江戸に送り、裁判の結果が

出るのに1年掛かり、その費用が241両掛かった

手代の20年分の大金に当たる。

一件落着後もこのお金の負担を巡って裁判沙汰になったという。

 

仙台藩などは、国境の関所で村送りとなった人を住所を言わせて

間違いなく自国の国の者であるかを確認してから国に入れた。

それだけ村送りの旅人は厄介で宿・食・薬の世話をしなければならず

もし亡くなったらその経費が掛かる訳ですから大変なのです

 

江戸で訴訟が起きた時は一番大変なのは、費用です。

宿泊費は大体300文くらいで、風呂は有りません。

食事は一緒。

300文でも20日間も泊まると1両にもなります。

 

訴訟の数が多いですから、中々順番が来ませんし、

当然長引き事も普通で何か月も逗留すると巨額な費用になり、

遠いところから来ていると、その間に、書類などを取り寄せる為に、

故郷まで往復する事もあります。

 

公事宿を題材に小説を書いた佐藤雅美氏の

「恵比寿屋喜兵衛手控え」から引用しますと。

大体が馬喰町の公事宿に泊まるが、

公事宿の仕事は、今の弁護士と同じようなもので、訴訟の代理人となって

書類の作成や白洲での駆け引きをするので、大変重要な仕事といえた。

 

朝早く奉行所へ行き待ちます。時間の指定など有りません。

ひたすら待ち、待つ間、奉行所前の広場で

金のある人は腰掛を借りて、ない人は筵を借りて(1枚16文)

何時とはわからない奉行所の呼び出しを待つしかないのです。

弁当(おにぎり)内緒ですが酒も売っています。

 

「宿の掛かりだけで昼無しで月に1両3朱、半年で8両、

昼をどこかで食べるとして半年で10両」

そして、それ以外に掛かるのが「湯銭、髪結い代、筆墨料、紙代、

公事宿に払う筆立料(書類の代筆料)、奉行所等について行く付添料。

これ等を合わせると、同社参詣も何もせずにじっとしてるだけでも

15両や20両。

備中から来る人などは、もう、三回も往復して、村挙げての訴訟で、

もう1年になるが150両掛かってます。

 

ですからもし犯罪が起きても今の示談で済ませようとし、

奉行所も又仕事が減るのですから、内済大歓迎です