おせち料理というと江戸では「ごまめ・数の子・黒豆」の

三種が一般的であった。

 

ごまめとは、干したカタクチイワシの事で、田作りともいう。

大漁の時、カタクチイワシを畑の肥料にしようしたら5万俵の米が

獲れたため、田作り或いは5万米(ごまめ)といわれた。

 

数の子は、鰊これは北海道の代名詞で、

昔は鰊が豊漁で鰊御殿が並んだというくらいでした。

アイヌ語で鰊を「かど」という。

数の子は、かどの子が訛ったものであるという。

 

黒豆は、黒大豆の事で、黒は魔除けの意味で、

豆は勤勉健康を意味する。

 

「おせち」は元々、「御節供」

節句に食べる料理の事であり、正月料理の事ではなかった。

天保年間の本では「御節は節日に供える食べ物だが、

今の女どもは正月の食べ物と勘違いをしている」と怒っている。

 

上方に行くと組み合わせが変わる。

数の子・敲き牛蒡・ごまめが一般的だという。

敲き牛蒡は「開き牛蒡」とも云われ、運を開くからだという。

 

さて御代官様のお節はというと同じく江戸在府の代官だった

平岡の日記を見る。

まず元日に喰積(蓬莱)が出された。

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三方の上に白米を盛り、上に海老・熨斗鮑・昆布・橘・野老・

ゆずり葉・橙・蜜柑・柿・栗などを盛り、長寿を願い

新年客に出されたもの。

 

平岡家の御節料理は、節分・大晦日・正月3日・年越しに

出された。

平皿(牛蒡・人参・芋・焼き豆腐・ごまめ)、膾(大根せん・人参せん・

ごまめ)、これを家中に出し、元日のみ雑煮も出した。

 

平岡役所では御用初めには、例年蛤の吸い物、重詰め物

(叩き牛蒡・煮豆・数の子)に酒を出してたが、今年は

倹約により出されなかった。

 

7日は朝裃着用で祝い、七草粥を家中に遣わした

下僚らには例年書院にて料理を振舞い、裏でも長屋家内たちに

振舞っていたが、やはり倹約の為にやめて、料理代として金2朱

遣わし奥の方も取りやめた。

又、この日に門や玄関などの飾りを片付けた。

 

11日は具足開き。

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書院にて一同でお神酒で盃ごとをした

この時の錫徳利で元日より備えて置いたもので

下の者に渡すときには味醂に入れ替えた。

味醂酒ですね。

夜は具足餅にて汁粉にして出し、蛤の吸い物、引き盃で一通り済んだ

餅は鏡餅にします。

それを手で割る。手を砕いて城を割る=攻城という意味です

 

汁粉は猪口に白砂糖、手塩皿にごまめ、黒豆、香の物

蛤吸い物には重詰め物に燗酒を付けた

奥の方でも同様で具足開きを祝った。

未だ白砂糖な高価なものであることが分かります。

八百善での宴会

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次は代官は異動が付き物ですから、今と同じように

代官同士の送別会が行われてた。

 

文化13年(1816)大阪へ出立するので明日暇乞いを

大貫宅でするので出席するようという書状が来た

大阪赴任に先立ち御用屋敷の筆頭代官の屋敷で送別会

4人の代官が招かれた。

午前6時まで行われた宴では、八百善の料理と越後屋の菓子が

付き、しかも持ち帰りにと風呂敷と焼き物の鯛まで

入れる棹籠まで用意されてる豪華なものだった。

 

越後屋と書いてあるが、もしかしたら鈴木越後かもしれないですね。

金沢丹後と並ぶブランドものでした。

羊羹などきめが細かくて美味しいといわれ一番高いもので最高級品でした。

 

献立は、雲丹・蒲鉾・鮑丼煮・ケンチャン(巻繊)などの高級食材、

巻繊は、中国の普茶料理で巻は物を巻いたもので、繊は千切り、

細かくした物、湯葉や油揚げで巻いた料理、

これらを実としたすまし汁でした。

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菓子は羊羹・鳥羽玉・カルメイラだった。

鳥羽玉は黒砂糖を使った真っ黒い京菓子で、万葉の古歌にも

黒・夢・恋などにかかる枕詞がある

「ぬばたまの吾が黒髪を引きぬらし乱れて

                さらに恋わたるかも」

八百善と越後、推測ですが30両以上は楽に掛かったかもしれない。

相当な金持ちですね。

 

懇親会もあります

代官同士の交流も活発でした。

幕府は同役との婚姻関係を基本的に禁止してた。

然し時代と共に弛み、代官同士のグループは勘定所の中では

隠然たる勢力を為すようになった。

やっぱり現地で汗を流して徴税をしてる技術者ですから

幕府も無に出来ません。

 

そのために代官同士は懇親を深め勿論仕事上での便宜を

図ってもらう。

今回のメンバーも代官の中でも上位グループで、1人の栄転を

祝うものでしたが、その栄転の代官が「引き」でこのグループの

1人を引き上げようと奉行衆に申し上げている。

結果的には上手く行かなかったが、後には就任出来て。

しかし、こういう交流が物を言うのである。

官僚化社会ではよくあるものです。

 

この後、広敷用人の座を此の懇親会に出てたメンバーが引き継ぐが

こうした時、前任者の強い申し立てや推薦があることは当然で

力があった事は言うまでもない。

 

実際に養子縁組も目立ちます。

代官というのは、引き上げられた人が多いのは事実ですが

中には、京の小堀家や韮山の江川家のように世襲で

代官を続いてる家も多く、こうした家も嗣子が居ない時などは

養子を貰わないと家が続くことは出来なかった。

 

さて懇親会のメンバーは、江戸在住だけではなく

下野の岩鼻の代官もいるが、宴の主人公は、御用屋敷の

筆頭代官だった方で、今度は大奥の広敷用人という

誠に美味しい役職への栄転です。

間違いなく蔵が立つほどの見返りが約束されてるのは、

御庭番の川村がそうであったからで、蔵を作れないと

御台や他から貰った品物が収容できなくなってしまったのです。

川村は蔵を作ってすぐに残念ながら病気になってしまいました