万延元年(1860)来日したイギリスの植物採集家は、
或る日品川付近を観て回りこういう感想を残している。
御殿山
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1860年といえば翌年の1861年にイギリス公使館が作られ、
パリ万博も有り幕府と薩摩藩で出品し、日本を紹介してました
長州藩士の高杉晋作らが前日は長州藩御用達の?
土蔵相模で気勢を上げ焼き討ちを企てた。
桜田門外の変を実行したメンバーも前日ここに集まったという。
土蔵相模

もうこの頃には、御殿山は異国船を迎え撃つために
砲台設置の為、お台場建造のために山を切り崩された頃
お台場
75万両掛けたといいます。
結局何の為にもならなかった。
砲弾1発も撃たなかった
上の絵は、もっと前の絵です。当時の風景を映し出しています。
作者の歌川広重は、非常に御殿山が好きであったとされ、
お台場を作るために山が削られかつての姿が変貌し
見る影もない姿になったのを悲しんだといいます。
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さて品川付近を散策し紅葉の美しさに感動した肝心の
イギリス人の感想です
「これらのあらゆる色彩の集団は、樫や松のような緑の群衆と
好個の対象となっている。
それらの丘や田圃の向こうを眺めまわしているうちに、
背後には殆ど雪をかぶった標高1万4千フィートの
円錐形の山に目が留まった
この神々しいまでの山こそ日本のフジヤマで、確かに世界中で
これ以上に美しい天然の風景を見つけることは難しいだろう」
感嘆しています。失った日本の美しさですね。
桜といえば御殿山。
3月15日、殿様の登城も無く同輩と一緒に桜見物。
御殿山は品川に近く藩邸からは1里半ですから遠い距離ではない
遠くても行くでしょうけど、帰りが楽しみです
途中の高輪で馴染みの店に寄って先ず一杯。
ほろ酔い気分、いい気分であったようです。
「賑々しく町屋敷もの、きいと目無し、又は鬼ごっこ。
様々な景色、茶屋の娘は傍を離れず、下へ進め候故
満更野暮っこも云われず、これやそれやと紛らかし候
どうでのがれぬ2歩処、とうなく下へ下へと下りかかる」
何のことかと思うでしょうが、茶屋の外の光景を書いてる。
色々な人が通って行き遊んでるのです。
主人公らは桜を見たら茶屋の娘に手を引かれて下に降りる。
そこからが今日のお楽しみでした
もう女が主人公らの羽織をもって新大和屋に連れ込んでしまう。
新大和屋の今日のやかましさ、2階も下も3階も三味と踊りと
口説で、女郎衆ごとんごと行き交い回る」
もう大変な騒ぎで女郎は吉原風に大層な手つきで酌をしたりと、
その後はそれぞれの部屋に入り、型通り紙入れ、
手ぬぐい、煙草差し、土瓶、お茶、煙草盆と揃え・・・・。
之より後の事は筆を止めるとある。
やがて時は過ぎ、どう過ぎたのかは分からないが
茶漬けを食べて帰る。午後4時だった
まだ早いので駕籠は止めて道に出れば、
各藩の勤番藩士や町家の人たちがひょろひょろ歩く。
「これこそお江戸の大散財」と書いてある。
長屋での飲み会

しかし、帰って大人しくしてたかというとそうではない。
お互いの小屋を飲み歩き、6畳の部屋に15,6人入って
酒飲み、小屋も割れよと踊る。
その内取っ組み合いの相撲を取り始め、
2階の階段から転げ落ちて
漬物樽に腰を打ち付け動かなくなる。
薬だ水だと騒いでるうちにその内酔いも冷めて
引き上げたのが午前4時だったという。
44歳のやる事ではないと思うのですが。
逆に臼杵ではやれない事でしょうね。
今回の主人公は家族で摘み草をするのが
好きであったようですが、
江戸に来ても摘み草をしてます
場所は、広尾原、今の渋谷の広尾です。
当時は長閑な田園地帯でした。
江戸勤番である定府衆の家族の女性や子供も同伴し、
弁当を16人前調えて仲良く行ったようです。
弁当は稲荷寿司であったようで、ヨモギを一杯摘んだと記されてる
近くには「やぶのうち煎餅」を売ってる店や茶屋が1軒書いてある。
勤番武士の江戸での一番のお楽しみはというと、
花見や寺社参詣、お祭りなどいろいろありますが、
やはり「女」であったようです。
臼杵藩邸は江戸のお堀に面してたが、そこから600mくらいの所に
久保町原という所が有り、葭簀張りの小屋が有り女太夫の溜り場で
そこから三味線をもって浄瑠璃などを語って稼いだようだが、
そこは下級武士が人目を忍んで小屋に入り情を交わしたところでも
あるという。
「瘡っ気と自惚れの無い男は無い」といわれた江戸の
成人男子の7割は性病に罹っていたという。
こうした環境も又それに拍車をかけたのでしょう。
吉原をはじめとして高輪などの岡場所で遊んだ様子を
妻への手紙に記してるのです。
どういう神経なのでしょう。
日記にも書かれてるが、普通は妻には内緒にするものでしょう
