丸子

メタボンのブログ 

安倍川を渡ると手越、そして、丸子である。

とろろ汁で有名である。

摺った自然薯に出し汁を合わせ、青海苔を麦飯の上にかけた。

梅若菜 まりこの宿の とろろ汁」の芭蕉の句碑がある。

 

京の公家である土御門泰邦が、ここ丸子の丁字屋で食べた記録がある。

名高きとろろ汁とはいかなるものぞと、取り寄せて見れば、

山芋はこの地の名産と見えて、如何にも色白く、青海苔も近き海より

かづき上げたりとおぼしくて、色も香もうるわし。

梅若菜に並べたるも理りなり。

ただうらむらくは、味噌の悪しきに鼻も開き難く、舌も縮みて、

そら音をはかる咽の関もこれは許さぬばかりなり

と、味噌が不味かったようで評判良くなかったようです。

京は白味噌、この辺は八丁味噌でしょうか、

食べ慣れないものは抵抗があるかもしれません。

 

岡部宿を経て藤枝宿で昼食、次の島田宿では休憩をしなかったが

宿外で駿府代官の手代や

各地の代官の使者が来てる

そろそろ任地が近いので近くの代官からの挨拶でしょう。

そして支配地である中泉の領内に入る。

日坂宿

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小山に囲まれた盆地にある小さな町だった

険しい坂道を登って頂上へ出て、右手は低くなり海辺に出る。

山腹はすっかり耕されていて畑であった
峠の一軒の茶屋があった。

 

日坂から金谷に至る登りが16町続く峠で、

箱根に次ぐ難所。

「新古今集」にある西行法師の歌で知られた。

年たけて また越ゆべしと思ひきや 

            命なりけり小夜の中山

道の真ん中に大石がごろんと転がっている。

弘法大師筆の(南無阿弥陀仏)の文字が

彫ってあるので、眺める旅人が多い。

夜泣き石として知られ、それに因んだ飴の餅が名物である。

 

ここは代官の旅の終点であり、支配地でしたので

町役人や名主たちが大勢で出迎えていた

本陣からは鰹節1連、ぜんまい餅2重、酒一壺、刺身、

硯蓋一重が出されていた

Hiroshige38 fujikawa.jpg

翌朝6時過ぎ出立したが、前夜遅く来たので回りを見てないので

改めて宿内を見る。

掛川宿に向かう。

入口から郷足軽が先に立ち、入り口からは2人、宿外は1人となり

領内の境まで先導した。

この行為は、近接する大名が幕府代官に対する馳走であり

慣例とされていた。

 

馳走というと御馳走のように山海珍味を出してもてなすことが

現代では当たり前ですが、当時は違いまして儀礼的な饗応を

示すものであった。

 

例えば道を行くに円錐状に砂を盛り何時でも砂を撒くことが

出来る。又、道を整備し清める行為である撒き砂、

水を打って清め、或いは清めることできる手桶、

履いて清めることが出来るように箒の準備、

これらは今とは違い道が土で出来てる事から穴が出来てたり

水が溜まってたり、ごみが有ったりするなどを一切無くすもので

こうした準備を馳走といったのです。

 

将軍が亡くなった時は、江戸の町は、将軍葬列が通過する際は、

商家などは家の間口数によって桶を提出したそうです。

勿論、盛砂、撒砂もです。(古代からの風習によるものらしいですが)

葬列が通過する時は、桶や桃灯が並び、その中を白帷子を

着た大規模な葬列が無言で通っていく

「将軍の葬列 家...」の画像検索結果

将軍の死の公表と同時に「音曲停止令」が発令されます。

停止期間は、亡くなった人物によって期間が定められており、

例えば、老中が亡くなったら3日間。

ちなみに、天皇が亡くなった場合も同じ3日間で、

これは、あえて、皇室を軽視し、幕府の権威を示そうとしたもの。

一定期間音を出す行為が禁止されます。

音曲停止期間は、3週間から1か月にわたって行われ、

その業種によって判断されたようです。

(家の普請などは短くとか)

又、死去の公表と同時にすべての商売は3日ほど営業停止された。

 

代官が支配地へ行く場合、天領というのは大名・旗本領と混在

してるので他領を通行することが当たり前である。

この際、大名たちは代官たちに馳走するのが普通でした。

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例えば東海道の船渡しである新井宿と舞坂間約8キロだが、

代官が船を利用するときは、通常の船ではなく朱塗りの

船を提供した。

しかも関所では麻裃に着替え藩主の使者と謁見した。

これは勿論将軍に敬意を示したものであり、他藩でも同様で

各地を通行するときなど足軽を先払いとして出し、宿所や

休憩所でも近隣の領主の家臣らが面謁に来ている。

 

大名たちは非常に気を使い、飛騨郡代が領内を通行するので

足軽を先払いとして出そうとしたが断られたので諦めたが、

もし通行の際に不敬行為があるとただでは済まないので

再度申し入れたが又断られた。やむを得ないので帰りの時は

取り繕ってほしいと申してきた。

 

「東遊雑記」にも、各村々では藩主の通行以上に神経を使い

案内役には想定問答集を用意し、想定外の事は

知らないと答えるようにした。

或る時、その様子を見て腹を立てたのか、馬を見て

あれは何だと聞いたところ、問答集には載って無かった

問だったため、「知らない」と答え一同笑ったという。

袋井宿

「江戸袋井宿 絵」の画像検索結果

代官に戻ります

掛川城大手門外で町奉行と面談、家中の者とも挨拶

袋井宿で昼食後、中泉陣屋の前にあった見附宿本陣で休憩

酒肴も出された。

遠慮したが「先規仕来り、是非御口付けさせられ候様」と

お願いされ拠無く箸を付けた。

 

宿には中泉陣屋の手付も参り、金百疋与えてる。

夕方6時頃陣屋到着