紀州藩士の酒井もあの三井家に招かれてご馳走になってる

これは仕事が取り持つ縁でして、

酒井は殿様が装束:衣冠束帯を着る時の手伝いをしてました。

いわゆる衣紋道といわれるものです。

 

三井家としか書いてないので分からないが、

多分、両替店の方では思われる。

幕府の御用達を勤めてましたから、衣冠装束を着る機会が

あったのでしょう

大奥にも呉服の間が有って衣裳を作りましたが、

ただ、装束などは京に頼んでいたようです

伝統と技術、そして御台の地元ですから化粧品なども

御台は京から取り寄せ、ませ子は自分たちが使う化粧品は

江戸の物でしたとあるので、恐らく京の化粧品は高価でも

あったのでしょう。

書道のお手本も取り寄せてたくらいです。

 

三井といえば為替を思い出す

当初は、幕府に貢租としてはいる物は大坂に運ばれ

そこで金に替えられ、大阪城の御金蔵に納められた

そして江戸に送られたが、やはり大金を贈るのですから危険で

違う手段が考案され、それに入札で応じて財を成したのが三井でした。

三井大阪店
 

専門の飛脚便を使えば大坂と江戸の間が三日半ぐらい

だったというから莫大な金額を簡単に送ることができた。
 手形の手数料は江戸と大坂の間で0.3%程度、

この場合の両替商は銀行と同じような仕事を

していたことになる。

 

方法はこうでした。

大坂の幕府役人が金銀を有力両替商に貸す。

両替商はそれを問屋に貸付、為替手形を取り

為替手形を江戸の支店なりに送る。

かたや、問屋は金銀を商品に替え、

その商品を江戸に送り売る。

代金が入る、その代金で為替手形を買い戻す。

両替屋は入金された金を江戸城の御金蔵に

収めるのである。

 

三井は、幕府の無利子の金で呉服太物を買い江戸に送った。

京の呉服ですから、「下りもの」です。

質は良いしブランド物ですから高値で売れます。

日本橋の越後屋は大儲けです。

越後屋そなたも悪よの!」懐かしい

更に、三井は両替屋も作り一手で行うようになり

財閥の基礎を作ったのです。

「長州 東征 絵」の画像検索結果

ですから幕末になり風雲急を告げて長州征伐などの軍資金も

かなりの額を用立てました。

江戸で一番多かったのは、三井両替店で3万両であった。

御用達を集めて御用金を納める理由として

将軍様のお蔭をもって江戸に住んでいられるのである。

こういう時ご奉公しないのは、将軍様に勿体ないではないか。

何としても御用金を調達せよ。

返済は、来年から10年である

 

と云って集めようとしたが、実際は返済など出来ずに

多くの店が潰れたと云います。

 

一方で討幕派にも資金を拠出したのは言うまでも有りません。

保険は掛けておくものです。

その為に有るのです