鰻といえば現代では土用の日が連想します。
当時も今と同じに高級品でした。
尤も安い屋台の辻売りのもありましたが、
少なくとも江戸の鰻番付に載ってるくらいの店の鰻は高いものでした

鰻は元々京で始まった鰻のかば焼きが良質の鰻が取れた
江戸で調理法が新しく開発され、濃い口の醤油や味醂の登場もあり
味醂を表面に塗るなど味も良くなり独特の江戸前の鰻が誕生した。
ただ開きに関しては特に背中・腹から裂くというのは
東西で決まって無かったようです
吾妻橋
値段は今とそんなに変わりませんが、
一番違うのは国産鰻であったこと。
江戸前の代名詞は当初鰻の事を指していた。
それがいつの間にか鮨も使うようになったのです。
江戸前の鰻というと、場所でいうと花川戸
花川戸というと隅田川に面していて、吾妻橋西詰で
浅草寺の門前町です。
浅草寺が有りますので多くの参詣客が舟で来て船着き場も
多く用意されてる。
当然ながら、お土産屋や飲食店も多く立ち並ぶ、門前町らしい
所で、特に、「江戸前」を売物にした鰻が名物です。

この近辺で取れた鰻を江戸前として、それ以外で取れた鰻は
「旅鰻」と区別し、値段も倍以上違いました。
特に店の名でいうと、番付を見て分かるように行司の欄の下に
記されてる大和田、此方は支店も幾つかあって超ブランドの店でした
勿論、値段も店の名に負けないくらいものでした。
値段は蒲焼なら1串16文の屋台で売るものから1皿200文、
鰻飯なら100文から200文。
この当時の鰻は、皿ごとに売られたらしい。
大きな鰻は1皿、中くらいのは2,3串、
小さいものだと4,5串で売られた。
値段は、200文位。
うな丼は、その半値で提供されたが、驚くのはそのボリュームです。
ご飯・蒲焼・ご飯・蒲焼の2段重ねであり、
1切れが10センチくらいの大きさで
12切れ入っていたという。
これを食べたら間違いなくお腹一杯であったでしょう
今のようにお上品に?お義理で仕方なく浮世の義理で
ご飯の上にちょこっと乗ってるものではなかった。
文政年間には鰻飯が流行し、深川だけで22軒の蒲焼専門店があった
この鰻については、臼杵藩勤番日記では4回登場します。
何れも結構お高いもので奮発したことが分かります。
落語の「たが屋」でも、「「二本差しているのが判らんか」という
武士に云われた「たが屋」が、「知ってらい、たった2本じゃねえか。
焼き豆腐だって2本さしているじゃねえか。
気の利いた鰻は4,5本差してら。
そんな鰻、うぬら食ったことあるめぇ・・・・俺も久しく食えねけど・・」
急に最後になって、締りが無くなる。
鰻屋大和田 創業1805年
当時最高のお店と云われました
勝海舟のライバルと言われた旗本の小栗忠順家では、
切米を支給される、今でいう給料日には家族揃って
鰻を御馳走することにしてた
年に3回、当時として珍しく、夫婦で揃って食べに行っているのです。
仲の良い夫婦だったのでしょう。
金2朱というと金1両の8分の1ですから、
8朱で金1両です。
こちらの臼杵藩士は、当時の江戸の有名店である大和田の鰻を
注文している。
4回食べたようですが、いずれも1回の料金が1朱である
1朱というと1両の8分の1ですから高いものです。
4回の内の1回は病気見舞いに取り寄せたものでは有るが、
握り寿司には見向きもしないが鰻だけは最高級の店から
高いものを取り寄せてる。
贅沢なものです。
臼杵といえば海の幸には恵まれていたから握り鮓には
食欲をそそられるものは無かったのでしょうか。
