江戸城

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江戸城内は広く複雑な構造であった為に番入りした旗本や

御庭番もそうでしたが最初に城の内部構造を覚えます。

御庭番などは、一部の部屋を除けば何処の部屋でも立ち入ることが

出来ますが、やはり内部構造を熟知するのは不可欠でした。

間違って部屋に入ることはなりません

 

その為に番衆狂歌という覚えやすい歌を作り

間違いの無いようにした。

「登城には大手・桜田両御門  御玄関より上がる御番衆」

御玄関の上を獅子の間御徒番   天井虎の間御書院番

獅子の間とは、玄関を上がって直ぐの「遠侍」のことで、

この部屋の襖絵が獅子に牡丹であったからである。

御徒衆の詰所です。

  御徒衆の勤務

正面に座っています。

虎の次蘇鉄よ檜の木小十人  紅葉の間には御小姓組

虎の間から廊下を歩くと、細長い蘇鉄の間がある。

大名の御伴(留守居番)の待機所です。

そして、檜の間、この部屋を挟んで小十人の詰所、

西側に御小姓組の詰所である紅葉の間が有った。

「虎の間 江戸城」の画像検索結果

御小姓組は、最初、黒書院の西湖の間に有り、

その前に花畑があったので、(御花畑番」といった。

そして、大坂の陣の前後に紅葉の間に移ったので、

その時、御小姓組と名を変えた。

富士見櫓←桔梗門←巽二重櫓

左上の巽櫓は明治6年に焼失

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更に別な日にも探検してる

半蔵門

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この日は、丁度江戸に来て間もない頃で役目柄

何れ来るお仕事の為に江戸城に下見に来た時の事です。

連れも無く1人で歩いていたという。

竹橋門から半蔵門に抜ける道を通っていた。

竹橋門

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この道は以前は通行を禁止されてたが有徳院様(8代吉宗)の時

「通行差し許された候由」だった。

そこに偶々供を連れた直参の侍が通りかかったので一緒に歩き

色々な話を承わったとある

吹上門

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吹上とは、四谷玉川の水を引き込んで庭に吹き上げさせたので

名付けられたという

五六長屋などもあり公方様が山王祭の山車などを見るところだという。

又、一番高い所もあり、そこは富士山が見えるように松の上の木が

払ってあるという。

途中に番所が有り朝は6時から夜の9時まで通行が許されている。

但し、女は暮れてからの通行は許可されていない

日記には「御城中と思えばなにやら気味悪く御座候」

この日は、下に矢の騎射場があり、明日は旗本の騎射があるので

昼頃から往来止めになるというので、丁度良い時間に来たとある

 

吹上は、火事などの災害の時の避難地となってました。

弘化元年(1844)5月10日の本丸火災には、

家慶らは滝見茶屋に避難している。

この火災の様子を旗本の井関夫人が詳細に述べている。

「続徳川実記」では、「十日雨降る、寅の下刻ばかり平川広敷より

火出でて、本城悉く焼失せて、卯の下刻ばかりに熄む

と、簡単であるが、隆子は自宅から見える火を前にしての

臨場感漂う描写が素晴らしい。

天保十五年五月十日

雨が昨夜から降り出し、一日止まず。今朝暁の頃、

火災の知らせがあったが雨の降る音が高く誰も驚かなかった。

その内騒ぎが大きくなり、外を見ると、

南の方に大変な炎が燃え上がり雨雲を焼き焦がすような状態であった。

昨夜は2人そろって宿直である。2人の身の上を案じて、動転してしまい、

立っているのがやっとという状態である。」

 

 

又、色々な催事にも使われた。

 

太田南畝によると、中央の広い広場が芝生になっていて、ここを

「吹上御庭広芝)と呼んでいる。

芝には、住吉の浜と常滑の松を植樹し、縁に山吹の流れには高砂の松

園池の岸には天橋立の松、北野神社、須磨、今宮、和歌浦などの

松が植えられていたという。

 

 吹上競馬場

これは尾張藩主・慶勝が幕末撮影した写真
 

お城では、吹上で番方騎射上覧がある。

将軍の前で弓の腕前を披露するのである。

吹上御所にて、狭物と云われる的を射る。

優秀者には、白銀等が贈られる。

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御庭番の川村家の日記では、山里御庭で初めて御弓場上覧。

銀1枚頂戴。とある。


 

大岡ませ子の大奥・御台所が吹上に桜の花見をする時の

様子です。

外出の時は傘を召さない方が多うございました。

吹上へ御出での時は、紺の無地の傘で御紋も無ければ、

模様も無い。

御供の者は、炎天の時でも傘は有りません。

 

花見の時でも、幔幕を使いますが、御紋入りのは有りません。

無紋か或いは輪だけの、今の皇室が使っているものです。

花見は吹上ではなく、五十三間馬場で行われたようです。

吹上には幕を張るようなところは有りませんが五十三間の

馬場にはあります。

例の白黒の幕を張ります。

この白黒の段々幕と輪ばかりの紋は今でも宮内庁で使っています。

53間で御紋の付いた幕は見たことありません。

弓の稽古や馬の稽古にも使われた所です。

 

滝見茶屋
 

吹上では、別々に御出でになって、上様(家茂)は滝の茶屋、

宮様(和宮)、は諏訪の茶屋、旦那様(天璋院)はお花壇に入り

一緒に花見をします。

模擬店などありません。

料理は御膳所から持ってきます。

五十三間は馬の見所ですから建物は有りません。御同席になります。

  諏訪の茶屋

 

将軍家のお酌は表向きはありませんが、ここ吹上か五十三間に来ると

御手ずからの酌でいただきます。

御側の者は御側で、そうでないものは御縁の下で頂く。

嫌いな者には、少ししか注がないので大丈夫です。

ここでも、御目見えか、そうでないかで選別されるのです。

明治期になっても、これは生きていました。

 

五十三間では、桜と菊と年に二度あります。

花見の時は決まって味噌の付いた御団子が出ました

  西の丸・吹上門
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こうして江戸城探検は終わりますが、14か月の江戸在府中、1回だけ

江戸城内に入ることが出来た。

主人公は臼杵藩では100石取りの上級クラスですが

それでも城内に入った武士は少なかったようです。

 

しかし、町人で江戸城の中を見た人が居る。

しかも大奥の中までも見たのです。羨ましい!

そこまで行かなくとも、或る程度城内を見物は出来るような

パックみたいなのはどうもあったらしいですが?

 

それは兎も角として、元冶2年(1865)近江国の庄屋が、

観光ではなく大津宿の助郷負担減免の願に来たのである。

しっかりと観光もしてますが。

 

彼等は、当時、越後呉服店と並び称せられた「岩城升屋」と懇意で

全盛期には11棟の土蔵と従業員500人を擁し、「おはい、おはい」と

客を招いたそうです。

京都、大阪の他、麹町にも販売店を持つ堂々たる大店で

一方、幕府側のご用達を一手に引き受け、大番頭、升小こと

升屋小右衛門は経済学等の諸学に通じ、

仙台藩の財政を担当したエコノミストでした。 

江戸の宿も升屋の紹介で仕出し屋の座敷を借りたり、

升屋の支配人と度々江戸観光をしたりする仲であった。

   岩城升屋





 

 

 

その支配人から江戸城が火事のため前年再建工事が終わったばかりの

江戸城二の丸御殿を見学しないかというお誘いを受けて当日

江戸城を訪問した。

 西丸御殿

唯一残った建物でしたが、明治5年焼失した
 

 

藩出入の店のルートで以って紹介されて、焼印のある檜の手札を貰い

虎ノ門近くに住む高野という武士、彼は虎の門近くに屋敷が有り

休息の為に宿下がりをする奥女中たちの面倒を見ていたようで

奥にもたやすく出入りできる人物であった。


 
 

その先高野の先導の下、高野の屋敷で鑑札を貰い、それを

腰に付けて桜田門に入り番所で簡単な吟味を受けて人数を

記して後に城内に入った。

紅葉山・吹上、本丸などを眺め、「総檜節無し」の二の丸御殿に

達し、更に中に入り見物し、女中まで見ている。

 

 右下が七つ口で、その上に玄関が有る

通常は七つ口までで、ここで商人などが来て物を販売する
 

彼ら一行は、7つ口と云われる張り紙のある大玄関から大奥の

長局へと入り居並ぶ女中部屋を細かく観察した。

日記には「右の7つ口より麻裏草履にて何の苦も無く昇殿の

人多し」とある。

当たり前ですが、草履を穿いての移動です。

 

更に、他の長局や御殿向きの見物も許され、「御二階にいたるまで」

各施設を見学した。

あまりの見事さに、「ちじみいるばかり也」の「上々の御部屋」

新築されたばかりの「大三階建ての御殿向き。総白木造り、

広大院の住いの建物である新御殿を仰ぎ見て驚嘆。

松の御殿ですね。

 

その一方で、下女中がせっせと物を洗っている井戸端や

ゴミ捨て場の「木造の四角の入れ物」にまで興味の

眼で見ている。

 

これは、御台所付き中臈であった大岡ませ子がいう

「塵籠」(じんこ箱)であると思われる。

 

ヂンコ箱と云ってます。

三角形の踏み台兼用で真ん中に丸い穴が有る。

これは、自分の家にもありました。

踏み台としてよく使用してました、懐かしい!

 

ませ子は、このクズを入れる箱の事を述べてました。

縁側のヂンコ箱は、御末(下級女中)が集めて爺に渡します。

(爺とは、黒鍬者です)

鼻紙は、ヂンコ箱に入れます。桐の春慶塗りの堅長い箱で

真ん中に丸い穴が有ります。


御側には黒塗りのもありました。

御次・御三の間・御年寄・詰所など1つづつありました。

部屋部屋のヂンコ箱を毎日縁側において御雇爺に掃除させます。
この親爺の事を「ヂンコ屋」といいました。

黒鍬組の者です。

 黒鍬組の屋敷です。

屋敷というよりは小屋と云ってもよいくらい傷んだ様子が判ります。

黒鍬組は、幕府の最下級の身分で、戦場では死体処理をし、

平時では城の修理などをしました。
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