武家の女性

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でも一般の武家の女性ですと平仮名文が普通であった。

忠臣蔵でお馴染みの大石良雄が愛妻に出した手紙です。

情愛の籠った優しい相手を気遣う大石が居る。

俗説では、大石は妻・りくを離縁したなどと云われてます。

実際は、累が及ぼさないように実家に帰し、

無事に出産が出来る様にしたようです。

そして、無事に出産も済みました。

 

いつぞやも申しまいらせ候通りに、

いまほどやさかぎおん(八坂祇園)おどり

ゆえ、われら、ちから(主税)もまいり申し候。

なかなかなぐさみ事にて候。ふしみ(伏見)のかのおどりも見申し、

さてもさても,おどろき入りたる事ども、そもじどもへみせ申し度事と、

しんとしんとぞんじ,出す事どもにて候

息子の主税を連れて祇園の踊りを見に行ったが面白かった。

貴方にもぜひ見せたいものだと思った。

 祇園社
メタボンのブログ 

江戸よりも左右これあり候。さのみ宜しからずあしからず、

きのどくのみて候。

とかくいんぐわ(因果)のめぐりあいとおもふがかりにて候。かしく

 

このような境遇になったのは、因果の巡り会わせだと思うばかりです。

もう、討ち入りして後の覚悟を決めている人とは思えない、

静かな心境が窺える。

 

余計なことながら大奥女中に勤めていて、リストラによる解雇とか

或いは自分の意志による退職で大奥を退いた女中に対しての

感想が有ります。

大奥女中になり、花嫁修業として勤めていても、いつの間にか婚期に

遅れてしまい30才くらいなり、やむなく実家に帰る事とになると中々

結婚は難しいものが有ります。

あるとしても、後家の口です。

そうした大奥女中は、明治には結構見かけたそうですが、その印象。

 

「昔1番目に付いたのが御殿下がりという女性でした。

三十がらみで、どうしてもどこか品が有ってお化粧が違いました。

明治の初めにはあちこちにいたものです。

ただ、世間知らずで御屋敷育ちで諸芸にかけては

誰にも引けは取らなくても、

人の妻としては、何処か欠けていたと思います。

よく御殿下がりを妻に貰う場合は、いずれは二度添いですから、

先妻の子供に人情味があるかしらと、

人情に疎いと云われたものです。

女ばかりの間に育って男は殿様より外に

見たことのない女性は、

しょうのないものだと思いました。

そうして敬遠されて、本人は自力でやると習い覚えた

茶道生花の看板を掲げますと、

この方は本場を踏んで来た方ですから、

御弟子が思いのほか出来,独立できるという

 

明治という時代は、奥女中に対し割合辛辣な評価を与えている。

 

江戸城登城ルート

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例によって話が飛んでしまいましたが、話を戻して臼杵藩士が

殿様登城の際の大役を戴き、そしてその様子を伝えます。

大手3の門 下乗橋

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当日は早起きし、起こされて早めに出発したせいか登城は3番目だった。

しかし、下乗に入った時腰を落とす要領が少し悪く、

別に目立ったわけではないがなんとなく心遅れ候、とある。

更に下乗から大名や旗本が入って行くときに槍の元に出て

挨拶をするのだが、いざとなると槍などの御道具が何処の何方さまのかが

判らず、折角武鑑カルタで覚えたはずが、全く名前も出てこない。

やむを得ず御徒士の者から教えてもらう羽目になった。

しかし、これは「兼ねて御在所で聞き及び候」とそんなもんだろうと

開き直っています。

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本丸玄関まで行き、本来は刀番という殿様が御殿に入る時に

刀を預かり帰るまでそこに待機する。

午前中一杯は待機するのですからこれも苦行です。

しかし、本日は難しいという事で諦めて、下馬まで戻った。

 

そこに登城する老中たちが太鼓の音に合わせて登城し、

午前8時頃になると諸大名が下城、時間は午前8時頃だった

下馬札

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ここで馬や乗物から下りて歩いていく。