紀州藩の1日の行程は大体10里ほどであったらしい。
これは遅い方かもしれないですね。
早い所だと13里と言われてるから
御三家なので威厳をもって行列を進めたのかもしれない。
早く歩くという事は服装も歩きやすい物に変える。
但し、ライバル藩の城下や主だった地ではキチンとした衣裳に替える。
家老がどれくらい疲れるものかというと、藩主は本陣を朝8時くらいに出立
家老はそれに先立ち午前4時頃出て先導を務めた
道中には不測の事態が生じがちだからでした。
例として挙げると
九州の福岡藩黒田家が天保8年(1837)に常宿である
二川宿を利用した例である。
宿泊予定の5日前に関札が到着、
宿の東西の外れに掲示。
前日に宿役人の下見が有り、
当日の午前中に幔幕と提灯が到着。
本陣では1里と半里先に見張を立てて
行列の到着を待つ。
当日本陣に到着。宿泊したのは51人
(うち37人が2食付、14人が1食付)宿泊料が銀5枚。
匁で計算すると、60匁で金1両ですから
3両ちょっとですね。
51人泊って3両、本陣もこれじゃやってられないよ。
となるでしょうね。
家臣は下宿57軒に下宿(1泊2食412文)
人足達は日雇宿28軒に分宿、
1泊2食280文であった。
412文は高いですよね。
東海道なら1泊2食付で180文くらいでしょう。
銀1枚を43匁で計算すると今のお金でいうと5,6千円でしょう。
それで風呂を沸かし、本膳の食事を供し、
朝には梅干しに砂糖をかけて出したという。
砂糖は当時は高価なものでしたから気を使ってる訳です。
藤枝宿
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さて不測の事態というと寛文3年(1663)の時もそうでした。
大井川に差し掛かった時に、川の水嵩が異常に増えたが、
先ず藩主を先に渡し、午後8時頃藤枝宿に到着することが出来たが、
然し、家老は最後まで残り
最後尾が無事に渡るの待ち旅籠に到着したのが午前2時の事だった。
紀伊藩は、この大井川を超すと、其の日の夜は藩士に祝いの酒が
振る舞われたという。
鳥取藩も無事通過すると、早飛脚で連絡したのか、
江戸藩邸や分家から祝電が届いたという。
物の本では「大井川のごときは殊に川止めになり易かった。
川止めは旅客には大いに迷惑であったが、
宿にとっては有り難い事で、大名が泊ると、
次の大名もその次の駅で止まる。
此の大名達が落す金は土地の者にとっては
非常なものであった。
かといって、その土地以外の船で渡るとか、
船を浮かべることは幕府に禁止されている」
と書かれ、川越えが大名にとって大きなものであることが判る。
勿論水量の少ない年もあるもので「帷子を着て渡ったという記録もある。
ただやっぱり大井川は、東海道の最難所でした。
加賀藩は、大体が中山道を使うのが多かったようです。
これは、難所が、特に、川が少なかったからですが、
和宮降嫁の行列も、この理由で中山道を選びました。
それでも川留に会ってひどい目にあったことも有ります。
加賀藩の場合は、通常12泊の筈が17泊の記録がある。
文政元年(1818)に加賀藩主斉広の時に、
川止めで糸魚川で宿泊した時の費用は392貫文だった。
4貫文を1両と計算し、1両を10万円とした場合、
今の金で1千万円である。
1泊するとその金額になる。
五泊多いという事は、5千万余計に掛かったという事で
大変な出費でした。
鳥取藩の如きは、東海道を通ると宿泊費(97両)よりも
川越賃・船賃(139両)の方が高いのである。
一方で、同じ鳥取藩は中山道を通ると川越賃は45両なのである。
従って諸大名は中山道を進みたいが幕府はこれを許さず
東海道が廃れるのも恐れ中山道を許可しなかった



