紀州藩の話に戻りますと家老の

江戸での奉公というと、例えば藩主が在府中の時の勤め、

幕府との折衝も大事な仕事で、藩主が下城した後に必ず老中に

挨拶周りは欠かせず、藩主の名代としての登城も多かった

元旦諸侯初登城

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年賀の時など、元旦初登城の時は、藩主は8時頃屋敷を出るが、

家老は6時頃には江戸城に詰めていて、藩主が御用を済ませて

下城後もなお残りお流れを頂戴して、昼時頃下城であった。

お流れ頂戴は、高家の仕事で1月2日の将軍の盃のお流れ頂戴に

際しては、素焼きの盃を大名に渡して酌をした。

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此の混雑する本丸の玄関で事件が起こったことが有ります。

享保14年(1727)中間に化けて江戸城に入り、混雑する玄関前で

印籠や巾着を盗んだ掏摸もいた。

当然、上を恐れぬ所業!市中引き回しの上、打ち首獄門でした。

 

この玄関で刀を刀持に渡し城中に入りますが、この刀を持った方は

主人が出てくるまでじっと刀を持ち待機するのです。

午前8時から正午まで待つようになります。

辛いと思います。

お供は袴を括ったりしていると、寒天には、脛の色が変わると云います。

従って、小用を巡っての滑稽談も多くあります。

トイレ=御用場ですね。

 

水戸光圀の家来が巻き起こした事件があります。

やはり、我慢できずに罰金を取られた事件で、主人・光圀を巻き込んでと

なりますが、どうも、作られた話であるようです。

しかし、あり得た話であると思います。

ちなみに城外で「おしっこ」した時は、罰金金1両です。

しっこ猶予にはならないのです。

  直垂(四位以上の礼装)
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長袴の場合は、紐を通してぐっと上へ捲り上げ、膝の上が出るほど

にして、玄関で自分で紐をほどきます。

 

絵の中に草履取りらしき人がいます。

外出するときは、草履を中間が投げて渡します。

投げて渡すというと大変乱暴な行為のようだが、然し、

お目見え以下の中間では貴人には近づけないために

やむえを得ない行為でした。

そして、玄関に上がる時、当然ながら草履を脱ぎ、草履取りに渡します。

この様子を浅野候は述べてます。

「草履取りは目通りが出来んので、投げ草履と称して、

遠くからちゃんと揃うように投げる。

草履取りの姿は見えているのだが、形式にそうするのです。

雨天の時は下駄なので、これは投げるわけにいかないので横から並べる

 

御城での御用が住むと家老は、その後上屋敷に行き藩主に親戚に挨拶し、

今度は老中屋敷を順次訪問する。

挨拶御礼、これはこれは頻繁に出て来るもので、

現代では考えられないほど、何かが起きると絶対必要なものでした

 

藩の御用では午前8時出勤、藩の御用に関する議題を協議議決する。

議題の少ない時は午前10時頃、多い時は午後2時頃に一旦帰宅し

再度登城し藩主にお目見えし午後4時頃帰宅。

 

寄合日以外も午前10時に登城し、当番の時には家臣の役替えや

跡目相続を申し渡した。

家老の間で当番日を設けて勤務してた。

午前中は藩政に関する業務をし、午後は藩主にお目見えするのが

日課であったようである。

挨拶御礼し、夕方頃帰宅であった

 

翌2日は、御三家や譜代筆頭の井伊家などの挨拶御礼

3日は他の譜代大名への挨拶御礼と多忙を極めた。

 

 

以前紹介したが、旗本が大的(矢の競技会で)好成績を収め、

将軍からも時服などを貰い名誉を得たが、その後、

老中を始めとして御礼の挨拶回りをした。

その時、1軒だけもう夜遅くなってしまったので、

明日朝早くしようとし、翌朝挨拶に行ったが、

老中からはきつい御咎めが有り、「上を愚弄するものである」

として処分された。

それほど、挨拶回りというのは重要なものでした。

 

鬼の平蔵の後を受けて火盗改めに就いた

森山孝盛という旗本も目出度く御番入りした時のお披露目だけで

50両という大金をかけ、しかも、20軒以上の上司・同僚などの家を

一軒残らず翌日に挨拶回りをすることになっていて、

中には不在の家もあったので1日では回れなかった

それは必須のものでした。

もう官僚社会になってたので儀礼だけが横行していたのです。

 

この家老の日常はというと寄合という執行機関の会議が月に3回

これは当番の有無に関わらずあった。

当番の家老の他に数人の家老や用人、寺社・勘定・町奉行

この辺は幕府と全く同じです

他に目付や番頭が寄り合う会議である。