しかし、これだけ多くの人が職に就くのですから

間違いも又多かったし事件も起こりました。。


心中・欠落、欠落と言っても2人で逃げる事ではなく、

1人で行方をくらます事で以前白木屋の小僧の件を紹介したが、

今回も発生した。

御定書では親族は、30日まず探し、見つからねば更にあと3か月、

合計半年間行方を探さねばなりません。

メタボンのブログ
 主人公の家でもありました

心中事件です。

これは以前尾張藩御畳奉行日記でも紹介したが、

この御畳日記の主人公は心中事件と聞くと飛んで見に行くくらい

大の心中事件物好きでした

参考までにもう一度紹介します

初の心中現場体験談。

時は元禄6年6月八日、文左衛門20歳の時でした。

心中は、若い彼にとっては強烈なものであったことでしょう。
現場は寺の前で自宅から近い所でした。

恐らく好奇心旺盛な彼は飛んで行ったことでしょう。

 

「午前2時頃養念寺門前にて、弓屋の娘・ふり(23歳)、

理助24歳、刺殺して理助も死。」

 

駆けつけた時、娘は未だ息は有り、体がピクピク痙攣していた。

「哀れなり」

それが文左衛門に強烈な印象を与えたのです。

 

その後、娘は戸板に乗せられて家に帰り、薬を与えようとしても

かぶりを振って口を開けない。

翌日の夜、父の勧める好きな瓜を一切れ食べて息絶えた。

 

女の書置である。

恥ずかしながら浮世の名残と存じ、心のたけ世を憾みまいらせ候、

誠に夢幻の世の中けふまでは色よく咲き栄え、明ければ散りて影も無し。

誠に浅ましき人界と存じ、今更驚くことはあらねども 無常なる世の中

哀れ不憫と思召し、心ある方は一返の念仏を頼み入りまいらせ候。

名残の筆を扇子につらねまいらせ候。

跡の儀宜しきように頼み入りまいらせ候。

名残と思えば胸ふさがりかかれ申さず。

浅ましや、浅ましや。」

心中現場

さて今回の場合は、女中と家来の心中でした。

江戸時代というのは、武家屋敷は特にですが奉公人同士の恋愛は

御法度です。厳禁です。

仕事に差し支えるとか風紀が乱れるからが理由であったのでしょう。

勿論、主人が許した場合は別ですが。

「江戸 大店 絵」の画像検索結果

商家の場合も同様ですが、大店、白木屋、越後屋などは男ばかりで

裏方にも女は居ない。

だから余計に大きな商家に勤めると女性が居ないので婚期は遅く、

丁稚奉公をしてやっと手代になる

30歳で婚期を迎えた一因でもあったのです。

 

さて結ばれることが出来ない2人の心中はというと、

奉公人の小侍と女中でした。

小侍というと江戸っ子からサンピンと馬鹿にされ、

年に3両1分の給金を貰っていたところからの蔑称でした。

本来は刀を差して名字を許された者の筈ですが、

実態は百姓の倅を仕立てたもので、当時は珍しい事ではなく

形だけ整っていればいいのです。

「江戸 武士 外出...」の画像検索結果

心中の当事者の小侍の年齢は21歳、

この家では代々小侍の名前は平蔵として決まっていて、

本当の名前など判らない。

これは、よくあることで名前が代々の名で付けることが多く、

用事を頼むときなど呼びやすかったからでした。

それだけ人も変わったという事もあったのではと。

 

一方の御女中は27歳、彼女の名も同様に

前の女中の名・サキで

あったからかサキと呼ばれていた。

共に5代目の平蔵とサキであったという。

 

事件は明和4年(1767)5月18日でした

その日朝に起きた地震で目を覚め、

女部屋の戸を開けようとしたら開かない、

しょうがないので他の部屋の戸を開けていた。

その時、女部屋から2人が飛び出してきて井戸の中に飛び込んだ。

井戸の中を覗き込むと2人は沈まずに釣瓶縄に捉まっていた

急いで2人を引き上げて様子を見ると、2人とも喉に剃刀傷があり、

女部屋の中には抜身があり布団も血に染まっていた。

紛れもなく心中のようだった。

 

平蔵の様子は臍下に刀の切っ先を刺した傷があり

傷口から内臓が飛び出てるので直ぐ医師を呼んで

手当てを受けさせた。

しかし手当ての甲斐も無く平蔵は翌日の午後亡くなった。

 

一方のサキは大した傷も無く請け人でもある兄が来て引き取っていった。

そして様子を見るに後追いして死ぬような気配も無かったという。

「江戸 心中 晒し...」の画像検索結果

しかし、ここで問題となったのは後処理です。

8代吉宗は心中という言葉が死を美化してると言葉を相対死と言い換え、

心中を厳重に禁止し、もし心中を失敗した時は、

その者らを街頭にて晒し者にした。

 

大阪で起きた心中の時は、死んだ女の陰毛が凄いと評判を呼び

多くの人が見に来たという。

亡くなって恥を与えるのが江戸時代の仕方ですから、多くの人が

見ることにより、実行するものは減るであろうという考えです。

亡くなった方には葬儀も墓も許さないという厳しいものでした。

 

当時の人は、刑場での処刑や心中の結果を見たさに

金を出して見物に来た。

処刑などは、武士の子は強制的に見に行かされた

胆力をつけるためです。

 

心中はもっと人気がありかなりの見物人を呼びよせた。

しかも段々見物料が高くなったのです。

 

文化元年(1804)江戸両国川に身を投じた男女の死体が

汐の流れに乗って源平堀と新大橋の間を行き来してました。

名所江戸百景 千住の大はし 

男は21,2か女は16,7歳。

男は揃いの桔梗縞の浴衣、緋縮緬の褌、

女は、白縮緬の腰巻を付け、帯は黒繻子、

男は碁盤縞の真田帯

女の髪は銀鼈甲の簪と笄で飾られていた。

2人は晒しの手拭で鉢巻、お互いの体を緋縮緬の

しごきで結いつけて抱きあがった姿が美しいと評判になり

江戸中から野次馬が押し寄せた。

 

舟を出して見物に行く人が混雑し、

喜んだのが船の船頭で、最初は一人8文だったのが、

見物客が増えるにつれて

値上がりし、16文、24文、32文と成り、

遂には50文にまでなったという。

 

「此の見物を乗せたる舟、幾艘ともしれず、

船頭は情死ありて、

思わぬ銭儲けをしたり」と伝えている。

心中現場
 

 

人気を呼んだのは、女が絶世の美人であったと

いう事もあるが、最大の呼び物は、心中した2人は、

浮き上がった時の姿の美しさを

考えて着飾っていた点でした。

 

話を戻しますが、しかし、何故井戸に飛び込んだのか?

この時代、明治のころもそうですが、井戸に飛び込むというのは

よくあったようです。

大正時代でも作家の徳富蘆花が女中を叱り飛ばしたところ、

泣きながら裸足で飛び出したので井戸に飛び込まれたら

大変と心配したと日記に記されています。

 

家の井戸は水に油が浮いて泡が立たないと不審に思い

井戸浚えをしたら腐乱遺体が出たという話があったそうです。

井戸というのは、一節によると深い穴が黄泉に通じる道と

考えれたからという意見もある。

 

映画「赤ひげ」でも毒を飲んだ子供を介抱する女性たちが、

井戸の底に向かって必死に呼び抱えるシーンがありましたね。

蘇生を求める声であったのでしょう。

 

この処理をどうしたかというと、「乱心」という事にした。

正常な状態で心中をしようとしたら、これは重大な事だが、

そうでないのなら情状酌量、当時はこういう言葉はありませんが。

とにかく関係方面に気配りすれば何とかなるもので、なったのです。

心中現場

心中は、井関隆子も日記で取り上げてる。

これは、天保年間お見合いが盛んに行われてた頃の事件。

旗本の間で起きました。

天保元年(1830)或る旗本の屋敷で若い旗本の子息らが

集まり弓を興じていた。

 

そこを屋敷の家の娘が物陰からそっと覗いたそうです。

すると好みであったのでしょう若い武士がいて一目惚れをした。

その若い武士は兄弟であった。

その後、娘の許にお見合いの話が持ち掛けられ、、娘は

確認しないままてっきり思いの武士であろうと即断し、

縁談を承知し婚礼の式を迎えた。

 

三々九度を終えて新妻がそっと夫の顔を見ると違う。

全然違う。

兄の方だったのです。

娘はがっかりしてしまった。

しかし、今とは違って家と家との結びつきです。

一人だけの思いで離縁などできません。

 

しかも、同じ屋敷で同居してる。

幾ら広い旗本の屋敷といっても毎日顔を合わせます。

娘はまだ16歳、堪えていたのでしょうが、ある日、

堪り兼ねて弟の方に想いを打ち明けてしまった。

到頭、一線(どの線かは判りませんが)超えてしまった。

(実況放送はありません)

 

その後も、屋敷内で逢瀬を重ねた。

ばれない筈がありません。

追い込まれた2人は心中を決意した。

夫が城中の夜勤の時に決行した。

娘は白い装束を着て、家人が発見した時には、白の装束を

真っ赤に染めて既に息が絶えていたが、男の方は、刀で

喉を突いたが死にきれずに息があった。

 

その後弟は手当てを受けて回復し、兄と同様、勤務に

付いたという。

娘の方は、密かに実家に送り返し、病死として処理されたという

 

隆子は日記に「この娘のいたずら心こそにくきやうなれど、

初めに己が男と頼みつる人の違ふけむほどの心地、

如何に口惜しかりけん」

 

心中は、天下の御法度で厳重に処分されます。

当然、裏で取引があり、お家存続を優先して動きがあり

親戚を招集して善後策を検討して、結局、上記のような

処理をしたのでしょう。

 

勿論、タダでは出来ませんので関係各方面に金をばらまいて

の事で、こうした不祥事は、親戚もお咎めを受けるので、

武士の場合は、連座制ですから親戚に累が及ばないようにします。

すると何とか表沙汰にしない形になります。