火事

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江戸の華と言われた火事は容赦なく江戸の町を襲いました。

当時の消防は、破壊消防と言って、火が回りそうな所を前以て

壊し延焼を防ごうとするもので、火を消すというのはとても不可能でした

祭の時に寄付を惜しんだり、或いは、日頃臥煙と呼ばれた消防夫の

ご機嫌を損じてる店など、これ幸いとどさくさに紛れて、延焼を防ぐという

名目で安全なのに壊されてしまうという事もあった。

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明和2年(1765)小石川箪笥町の幕臣の家から出た火は、

瞬く間に燃え広がり、突如吹き始めた北風に煽られて

近所一帯を焼け尽くした。

しかも。火元は江戸城内で表火の番を務めてる御家人で

あったというのは大変皮肉な事であった。

 

この火災で家財道具は悉く焼失し、祖父や父の小袖を入れてあった

葛籠や鋏箱の着物、台所道具も全て無くし、残ったのは

仏壇道具一式、祖父の蔵書類、皆着の身着のままというになった。

 

季節は2月ですから冬の真っ最中、霜も下り氷も張り、米も炭も無い

状態で立ち竦んでた一家に救いの手が差し出された。

火事が収まると事後報告の瓦版が出ます。

値段は、3,4文から高いものは20から30文でした。

 

最初に救いの手を出したのは親戚の大井・本山家でご飯と香の物、

札差の下野屋から握り飯・饅頭・香物、そして日本橋の越後屋からも

来ました。手桶に入れた握り飯と焼味噌。

越後屋というと現金割引なしというのが有名ですが、

実に細かい客引きもしてたのです。

 

越後屋だと5両も出すと、織付と買い物をした品をもって

客のお供をして家まで持ってきてくれたという。

そして、大店の越後屋も布袋屋も何処も道行く人に声を掛け

「お掛けなさい、お茶をお上がんなさい」と大きな呉服屋には

いつも茶の用意がしてあったと古老の言がある。

白木屋

当時同じ大店であった白木屋もまた同様で、あのケチで知られてる

戯作者の滝沢馬琴など白木屋で買い物をして、白木屋は客の味の好みを

知っていたのか、馬琴は有名人で京料理の事をボロクソに書いていたからか、

関東風の味の濃い料理を出してもてなしてくれ満足してた。

ごふく店 よろけて出るは 立派なり」

馬琴というと、古着専門で新しいのは先ず買わなかった人ですが

孫の正月の晴れ着だけは別だったのか新品を奮発した。

逆にいえば、それだけ新しい着物は高価なものであった。

 

馬琴のケチというのは逸話がある。

7人家族でしたが、屎尿代を巡り百姓と揉めている。

孫2人で大人一人分として数える馬琴に対して、

百姓は15歳以下は何人でもゼロという回答で百姓は譲らず

結局大根300本で妥結。

翌年別の百姓に変えた。

馬琴は武士です。葬儀も武士の扱いで行われた

それでも値段の交渉をしたのです

 

当然、庶民には呉服店などは縁のない店でした。

越後屋で切売りをした時は、長屋の連中は1反を買って、

それを6等分にして褌に作った。

褌と言うのは貴重なものですから、用途という意味ではなく

それも金の財宝を守るので貴重ですが、

風呂に入る時も肌身離さず?頭にくくりつけ入り、

行き倒れなどを見つけるとすぐ褌を剥ぎ取った位で

中には質屋に質に出す豪の者もいた。

或いは験担ぎにも使われた。

晦日の晩に褌を人目に付くところに捨てるのです。

女なら櫛を捨てる。

来年は良き年であるように願う。

「身にまとふ災を褌厄落とし」

 

男子は13歳になると褌を付けて大人の仲間入りをします。

褌を与えた人を褌親といい、

女子は、伯母などから赤い腰巻を贈ってもらい祝った。

腰巻祝」である。

贈った人は「腰巻親」という。

あやとり 春信
メタボンのブログ

女子の場合は、13才というのは子を産めるという意味である。

十三祝」といい、四つ身仕立の着物から本裁ちという大人の着物に

変わるのである。

本裁ちとは、並幅1反の反物で大人用の着物を仕立てる事である。

そして、本来の意味は、初潮を迎える事である。

川柳にも「初午は 娘も赤の飯を炊き」とある。

御祝の赤飯である。

馬とは、江戸時代の生理用具で半紙を折りたたみ紐をつけたもので

馬の腹掛けに似ていることから来ている。馬=午。

勿論、内輪の祝であるから「兄は訳知らずに祝う小豆飯

幾らも年が変わらない兄は何故小豆飯なのか判らない。

それでも黙って食べる兄が多かったでしょう。

それでも聞く兄もいる。

なぜ小豆飯だと兄は聞きたがり