乳幼児の死亡率が異常に高いのは知られているが
徳川将軍を例に挙げると、何故、将軍の子供の死亡率が
高い原因として逆に医師の過剰な医療、鍼灸医療も上げられるという。
出産に際しては手厚い医療体制を取り、例えば、11代家斉自身の
誕生の時も10月3日に誕生したが、8月24日から医師が泊り、
9月15日には更に医師が加わったほどである。
従って、将軍の子女の誕生に際しては、2月晦日に誕生した子などは
誕生前の1月15日に、御側衆から2月朔日以降、
医師が昼夜に関係なく付き、担当医は毎日診察する事、出産の気配が
有る時は医師全員が参上することなどのものだった。
子女の死亡は相次ぎ、寛政11年には、
将軍家斉は、相次いだ子供の死に際し特別な医療ではなく、
普通の医療を求めるようにと改善を求めている。
もう一つの理由としては、乳の問題である。
生れたばかりの時は、豊富な授乳経験のある乳も
豊富な旗本の妻が選ばれてするが、それは直後だけで、
それ以降は応募に応じて書類審査と面接によって選ばれた
「御乳持」と言われた女性である。
城内には、「御乳持」と書かれた部屋もある。
最多で文政7年には、40人が採用された。
この時は、対象となる子女の数は7人であるから、過剰な感じはする
然しながら、大奥に来ると過度の緊張、将軍の子に乳を上げるのですから、
ストレスがたまる為か乳が出なくなるのである。
乳が出ない苦しさも大変なものがあるようである。
なった事が無いので分かりません。
従って、乳の出る人を付けなければならいことになり、40人となった。
この結果、新たに、御家人の妻を採用したが、彼女らは御目見え以下であり
従って、乳を上げる時に抱いて授乳したり、添い寝して授乳する事も
禁じられたために、通常の母子のような関係を持つことが出来ず
懐に抱かれながら乳首に吸い付くという当たり前の行為を許されない
乳幼児たちは、ストレスを抱えてしまうのである。
更に授乳の時は覆面をしてやらなければならなかった。
これは顔を覚えてしまうのを防ぐためだが、何故こうしたかというと
春日局のように乳母として強大な権勢を持つことを恐れたからだという。
スムーズに授乳できるように、寛政の改革で松平定信は添い寝や抱いて
授乳できるように御目見え以上の旗本の妻を採用したが、乳をやっていた
若君が早世したこともあり退職したとある。
彼女らは一段とストレスに弱いために、更に乳が出ないという悪循環に
なってしまったのである。
森山孝盛という旗本は何度となく登場してる。
鬼の平蔵と言われた火盗改めの長谷川平蔵の後任として着任した方ですが、
実はこの方の娘も旗本の妻女の乳持ち募集を聞き、父の出世の為に
役立てればと思ったのか募集し採用されたが、勤務が辛かったのか
「様々な心遣いにやつれて、忽ち乳も細く成り」とあり
乳が出なくなり将軍の子が亡くなった事もあり身を引いた
結局乳幼児の死亡率というのは江戸時代通じて高い水準を示した。
以前、水戸徳川家で乳持ちをした女性の感想が
有りましたので、又、紹介します。
「子供を産んだことも育てたことも無い、無知な奥勤めの老女が
独裁的権力を持ち、乳母は賤しい身分の愚か者として奴隷視し、
まだ乳の飲み足りない幼子が、そのいやしい女に長く抱かれて
懐かれては大変と、無理に引き離す惨さ、飢えを訴え、痩せ細って、
ヒィヒィ鳴く赤子の声が聞こえない鬼婆の様な老女をいかんともし難い。
殿様の子だとて冬の夜寒い広い部屋に1人寝かされては寝付かれず、
添い寝して慰め、温めてやりたくても許されぬ。
その哀れな鳴き声が胸を抉る思いで、あんな身分に生まれる子の
不幸せと、貧しくとも母の乳を心いくまで吞み、母の懐に抱かれて
温かく眠り、すくすくと育つ我が子の幸せを思わずにいられなかった」
おんぶ
少女の仕事の一つでした。
商家などで雇われてするもので金は出ないが食事は出ます。
食い扶持を自分で稼ぐのです

今度は御乳持でない奥女中のコースを選んだ女性の場合。
1つの家に3人の娘がいてそれぞれ違う家に奉公した
次女が紀州徳川家の奥に御次を務め、給与は年8両2人扶持、副食費
長女は一橋家に祐筆で、年に10両2人扶持、ゴサイ銀として月に銀35匁も付く。
ゴサイ銀とは塩とか味噌を買うお金、35匁というと大奥の御末(下女)より高い
三女は、薩摩島津家に御次で奉公。
順調であったのは薩摩島津家に奉公した三女で中臈まで出世したが
残念なことに奥方が死去したために解雇された。
大奥でもそうですが代が変わると入れ替わりがあります。
そして2年後に一橋家の老女から黒田家に奉公しないかという話があった
この老女には大変恩があり家計の苦しい時に応援してくれた女性でした
しかも、今回は黒田家の当主の見回りの世話をするのでは、御家人の
身分では相応しくないと一橋家当主の養女に一旦入り、それから
黒田家に奉公するという破格の扱いによるものだった。
しかもお金のことは心配しないでと言うものですから、玉の輿と
言ってよい話です
しかし、彼女は悩みます。
黒田家当主はまだ20歳くらいの若さですから側室になるのはやむを
得ないとしてもその当時黒田家屋敷には色々と奇怪な話が広まっていた
雨の日には邸内の道に生首が転がっていたりとかの噂があり、
それがどうも躊躇させた理由のようであった。
しかも、黒田家当主は一橋家当主の弟であり、兄弟の間をたらい回しに
されるような気がした。
そこで彼女は祖父と相談の上お断りしました。
ところが一橋家では大変な立腹でこれ以降彼女の屋敷への出入りを
禁止した「構い」と言われるもので他家への奉公も許さぬものだった。
これは武士の世界でも有り、例えば、大坂夏の陣で戦死した後藤又兵衛も
同じで黒田家から構いを受け他家での奉公を禁じられたために
町で乞食のような生活をしてたともいう。
ともあれ出入りを禁じられた彼女は行くところが無くなり、
親と相談して小身の御家人と結婚することだった。
しかも相手は22歳の若さで2歳の女子がいたそうです。
婚礼は質素に行われ持参金も婚礼度具も無しというものだった。
もしかしたら黒田家の殿様の子を産んだ可能性も有ったわけですから
それを振り切っての人生でした。