お国御前 国許の側室

殿様は、逆に言うと武芸や学問を手を抜き

夜励むことが出来た訳で、子が多い殿様は精力絶倫か怠け者で

あったに違いない。

しかし、子作りは藩主の重要な且つ立派な仕事であったので

励むことは咎められなかったでしょう。

 

あまり大奥に通わなかったという将軍では、13代家定、

14代家茂、15代慶喜は行かなかったのか暇が無かったのか

13代は病弱の為に月に1度くらいと奥女中の言があり行かなかったが、

家茂は結婚前は2人ほど旗本の娘が居たと奥女中のませ子が言ってた

和宮と婚姻を結んだ後は、睦まじかったようで行ってないようです。

それと時勢が緊迫したものになっていて、武芸などの稽古事も

熱心であったようですから余裕は無かったでしょう。

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慶喜は、やはり時勢が切迫してましたからやはりそれどころではなく

逆に大奥には慶喜父子共に嫌われていて、鳥羽伏見の戦いの後

江戸に逃げ帰った時にも江戸城で一夜を過ごそうとしたが

蒲団も無い。

大阪城を脱出する慶喜一行

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蒲団を大奥に注文したら経費緊縮されて余分の布団はありません

などと突っ張られてしまい正室の美香子がやむなく一橋家から

蒲団を届けたという一幕があった。

そういえば正室の美香子は大奥に入らなかったために

御台所の呼称は無かったですね。

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慶喜はかなりのグルメであったらしい。

後年、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は、大阪城から主戦派である

会津・桑名の藩主を引き連れて江戸へ開陽丸に乗って

逃げ帰ってしまうのである。

そして、彼等と離れてひたすら恭順の意を示し、寛永寺で待つ。

謹慎した寛永寺葵の間

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浜離宮に上陸すると、(藤岡屋日記」によると、腑抜けの様になった

幕臣に対して「長い京暮らしで油が抜けたので、鰻の蒲焼きを買うように、

と命じたそうです。

而も店名も指定して「霊巌島の大黒屋」にと、

更に、城に鮪を納めさせておくようにとも命じた。

 

鮪は、まだメジャーではない時代で、特に鮪の別名が「シビ」と呼ばれ、

それは(死日)に通じたので敬遠され、トロ(この言葉は未だありません)

ズルズルなどと云われていた。

トロなどは捨てられていたのです。

猫もまたいで通ったと言われてる。

ですけど、慶喜は以前から食べていたのでしょう。

美味さを知っていたのでしょう。

ただ、京での生活は過酷であったようで、不眠症にもなったようで、

眠るためにモルヒネも使ったと云われている。

その反動が出たのでしょうか。

 

城に帰ってきた慶喜を待っていたのは、注文していた鮪で、

正身を刺身と味噌漬けに、アラは葱鮪にされていた。

而も夜食で食べるのです。

幕臣たちは、実に闊達な君であると褒めたというが、

本心はどうであったでしょうか?