下馬札

奥女中の給与は切米・扶持米・合力金。
切米は夏と冬、3月・9月に御借米として支給された。
借りとは禄の先渡しという意味である。
元文4年(1720)の米相場では、100俵で64両とある。
これは勿論幕府が城内に掲示する張り紙の事だろう。
御張紙といい勘定所の手で江戸城中の口に張り出された。
大奥に支給される米は質の良い美濃米で米を管理する札差は
伊勢屋四郎左衛門
切米の受け渡しには切米切手が必要だった。
身分に応じて支給される米の等級がある。
上米 将軍家・仏事用・大奥女中
中上米 高級役職者・大奥女中
中米 勤務を持つ者
中次米 無役の者、下級扶持米取、猿楽師
ちなみに玄米ですから米を搗きませんといけません。
搗米屋に頼むか自家で搗くか、色々です。
但し、城内には搗屋があったのでそこに持参した
搗くと2割目減りしたそうです。
大奥女中でも差別化が有ります。
やはり御目見えの上級女中と御目見え以下の下級女中との差です。
奥女中に採用の時も、挨拶は御目見え以上は座敷で御台所から
御目見え以下は老女がしました。
御台所とは顔を合わせることは不可能です。
明治になって慶喜家や田安家などでも裏方の女中が家族と
目を合わせることも無く、もし行き会う時は身を隠します。
それほど身分制度が厳格でした。
下級武士に渡される米は違います。
美濃米ではなく関東米でした。
しかも、色が変わり匂いのする古古米を支給されたのです。
此の切手を奥女中に渡す
老女衆の表印、御留守居全員、月番御勝手方奉行、
勘定吟味役の裏印を受ける
奥女中は、此の切手を書役に返し、御広敷御用達が点検し
伊勢屋の手代を御用部屋に呼び出し手形を渡す。
これでやっと米が貰えるわけです
米を貰う時奥女中は、現物である米で貰う分と、金で貰う分に分けて
御用部屋書役に渡す。
短冊を受け取った御用部屋は短冊に印を押して奥女中に渡す
全ての米で貰う分を目録に記入し札差に渡す
奥女中は自分のゴサイに短冊を渡しゴサイが代理で札差の所で
給付を受ける。
この時、札差は目録と短冊が合致してるかを確認、書役も立ち会う
そして、もう一つの金で貰う分
札差が計算して目録と金子を書役に渡す
書役は更に奥女中の御使番に渡す。それから各自に金を渡す。
実に複雑ですね、半年に一度とはいえ書役も大変です。
奥女中と言っても時代によって違うが500人くらいはいたようですから
激務なのかもしれない。
次は毎月貰う米の場合。扶持米。
| (1)御切米 | (2)御合力金 | (3)御扶持 | (4)薪等の現物 | (5)五菜銀 | (1)(2)(3) 合計 |
換算すると | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 上臈御年寄 | 100石 | 100両 | 15人(男扶持7人、女扶持8人、約21.5石) | 薪30束、炭20俵、湯の木50束、油7升2合 | 300匁 | 約221.5両 | 約2658万円 |
| 御年寄 | 50石 | 60両 | 10人(男扶持5人、女扶持5人、約14.6石) | 薪20束、炭15俵、湯の木35束、油4升2合 | 200匁 1分 |
約124.6両 | 約1495.2万円 |
| 御中臈 | 12石 | 40両 | 4人(男扶持1人、女扶持3人、約5.1石) | 薪10束、炭6俵、湯の木19束、油3升 | 124匁 2分 |
約57.1両 | 約685.2万円 |
| 表使 | 12石 | 30両 | 3人(男扶持1人、女扶持2人、約4.0石) | 薪10束、炭6俵、湯の木7束、油3升 | 124匁 2分 |
約46.0両 | 約552万円 |
| 御末 | 4石 | 2両 | 1人(女扶持1人、約1.1石) | 薪3束、炭なし、湯の木2束、油6合 | 12匁 | 約7.1両 | 約85.2万円 |
見ると判るように男扶持と女扶持がある。
男扶持は1日5合、女は3合。
力仕事をする御末が女扶持の3合です。
腹が減ってしょうが無いでしょうね。
上のクラスは白米で受けたようですが、下のクラスは玄米ですね。
城内にあった搗き屋で頼むか、或いは金が勿体ないので自分でするかどちらかです。
ただ、この御末という女中は下働きですから当然御目見え以下です。
ところがこの身分で将軍家光の目に留まり寵愛を受けた女性がいる
『お夏の方」です。
将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、
その際家光の手がつき懐妊しました。
このように湯殿で将軍や大名が身分の低い女中に手をつけ
子供が生まれることは珍しかったことではないようで、
「御湯殿の子」という言葉があるほどです。
「 事ありとみえて 御湯殿静かなり」
8代吉宗もそうです。
吉宗は、大奥に行った時は、お風呂禁止になりました。
奥女中が御湯殿の子を警戒したのです。
自分たちの特権を奪われないようにした。
夏は、寛永21年(1644)9月24日に長松を生みました。
これが後の甲府宰相綱重です。
この時、家光40歳でした。40歳は男の厄年に当たり、
当時は厄年の子供は親に災禍をもたらすと信じられていたため、
生まれる前から姉千姫(天樹院)の養子とされ、お夏も懐妊中から竹橋門内の天樹院の屋敷に移され、長松もそこで生まれました。
合力米は合計500俵で夏259俵、秋250俵と分けて支給された
この量は、お部屋様の切米に相当した
お部屋様とは、将軍の子を産んだ奥女中で子を産むと部屋を
与えられる。
ただ安心するのはまだ早く将軍の世子を産んだら別だが、
子供が無事に成長して大名などに藩主として婿入りでも出来れば、
御生母様として迎えられ大威張りで悠々と生活できるが
そうでない場合は、それほど恵まれたものではない。
御合力金は金3千両、夏と秋で半分づつだった。
こう見ても伊賀者の仕事範囲は、かなり広い範囲をカバーして
御留守居や賄頭、老中、札差とまで折衝をしなければならなかった。
