ただ、江原と全く違うところを見せる武士もいたのです。

屋敷の窓から物を買う武士です。

武士の体面を貶めるものです。

侍長屋

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大名屋敷というのは、大体において敷地が小さくても数千坪、

大きな屋敷ですと10万坪くらいもある。

最大では尾張徳川家の戸山にあった下屋敷でなんと16万坪で

今も公園としてあり中には箱根山も残ってる。

実際に宿場町も作って将軍を招いたりもしたのです。

龍門の滝

「尾張徳川家 戸山 宿場町 写真」の画像検索結果

 

大名屋敷は、表門、通用門などがあるが、出入りする商人や武士も

そこまで行くのが面倒なので長屋の2階から声をかけて物を買う。

これが武士の体面を汚すという。

 

何処の藩も屋敷には門限が有り、侍や小侍は午後8時、

足軽以下は午後6時であった。

門限は、以前紹介したが、紀州徳川家の藩士である

27歳、30石取の侍の酒井伴四郎の日記にもあるように

大体暮6つ、午後6時頃が門限、

しかし、門番に遅れても賄料という名目で100文渡して

通り抜けてますから、門限は有名無実でした。

 

藩邸への出入りは鑑札が支給され、外へ出る時は門番に預け、

帰って来たら受け取って組頭に渡す。

  藩邸の通行証
メタボンのブログ

また、出入の許された商人・百姓もいて、通行証を渡され、

野菜や魚、呉服、小間物などを扱う商人や、

大工や左官なども出入りしていた。

台所の賄をやってくれる小女も雇う事が出来たが、

色々と問題が有ったようです。

 

長屋は、大体2階建てで、下には藩士が住み、2階には中間が

住むというのが多かったようです。

勤番長屋の造作を変えることは禁止、但し、襖や障子は変えるのは

大丈夫ですが自前です。

家賃は勿論タダ。

 

中間は雑用や洗濯食事などをします。

紀州藩士の日記では、中間が飯を炊くのですかが、あまりに下手で

怒っている姿が有ります。

でも、竈で焚くというのは確かに大変で難しいでしょうね。

「江戸 足軽 台所」の画像検索結果

食事は自炊である。

余裕のある人は下男を雇って作って貰うが、酒井は、基本的に

毎日1回飯を炊いている。

食材は豊富である。

 

偶然にも今テレビでその食事を再現してます。

でも、鰹を食べて食あたりになって猛烈な痛みと雪隠通いで

夜も眠れなかったことなどは紹介しないでしょう。

生物は今もそうですが、冷凍保存設備の無い当時は、非常に怖いもので

刺身などは、海の近い所や季節で保存しやすい時期とか

限られていたのです。

そのため「づけ」なども考案されていた。

 

しかし、今とは違う意味で豊かな江戸湾を抱えた江戸は魚類の宝庫でした。

魚は、鮪や鰯など30数種類、野菜も茄子や大根、菜を煮たり焼いたり

恐らく勤番長屋に行商が来ていたのでしょう。

でも、オカズを昆布を煮たり、焼鮭を焼いたり、豚鍋を作ったりして

自炊している。

 

しかし、一方では外食も多い。

179日の内、外食の日が半分近い80日もある。

しかも、梯子喰いで片っ端から食べて歩いている。

紀州藩の場合は、加賀藩と同じで藩から補助が出てたので

女師匠を狙いに芸事に通う事も出来たので、食も食べ歩きが

可能であったのです。

これが貧乏な藩の武士ですと、1日中金が安くて居られる

湯屋に行くところです。

ただ酒井の場合も、湯屋に行ってそこに居た武士と囲碁の勝負をしたりしてるのでそれは同じであったようです。

湯屋の二階