将軍宣下

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「旧事諮問録」では、将軍に仕えた旗本たちが「公方様は存外に

人の思うよりは多忙で、私どもが前御小姓をしてた時分、能く

同僚たちと冗談に、「おまえは何になる」そう聞かれると

「私は公方様になりたくないと云うような事を言ったくらいで」

と証言されるように大変窮屈であったようですが、又、大名も

同じようであったようです。

 

まるで鳥籠の中にいるようだとも評せられた大名の生活は、

固苦しいものだと傍に仕えて家臣は口をそろえて言います。

 

伊予松山藩で世子・松平定昭に仕えた内藤鳴雪は語る。

「居間は上の間と下の間となっていて、世子は上の間に布団を敷いて

座って、その傍に小刀が刀架に掛かっている。

長刀は少し離れた床の上に置いてある。

小姓2人は下の間で世子に対して座っていて、世子から言葉を掛けられない以上一言も話せない。

何時も左右の手を畳の上に突っ立てた風に置いている。

膝の上に上げることは許されない。

如何にも厳しい容態で、世子を張り番してるかという風である。

世子にはさぞ窮屈だろうかと思われるが、習慣上そんなこと事も

無いらしい。

世子と雖もやはり行儀に座っていて足1つ横に出すこともせられない。

口きかぬ姿は殆ど睨み合いの姿である。

勿論我々の小姓は袴を佩いている。

世子は袴をはかれない。

それから庭へでも降りて散歩でもしたいと思われると、

今の小姓2人が必ず付きそう。

1人は世子の小刀を持ち、どちらへ歩まりょうが、陰の形に添う如く

この2人は離れない。

悪く言えば監視付きの囚人というさまだ。

世子を奥に送る時でもこの御鈴限りで、小姓は例の持っている

小刀を女中に渡す。

それと共に世子は奥に行かれる。

御鈴口はチャリンと錠が下りる。

これもなんだか囚人の受け取り渡しでもするような有様であったのだ。

 

世子は、少々身体が不快で横になりたいと思わるる時は、

側役を呼ばせてそのことを告げられる。

側役が宜しゅうござりますというと、それから小姓が褥を敷くのである。

 

うっかり身動きでないというのは此の事ですね。

雁字搦めに規則と教育で縛られている。

 

幼少のころから厳しく躾されてる。

勇名なのは慶喜の少年時代、父の水戸藩主の斉昭が厳格だった。

慶喜の躾の方針を逐一家来に伝え厳しく行うように厳命しましたから

これは家来も実行します。

 

「斉昭は諸公子の誰彼を問わず、一体に厳しく教導せよと仰せられ

自らも夜中に不意に公子達の曹司に渡らせられて、「昼は何の書物を読み如何なる悪戯を為したか」と奉仕の女房どもに問わせられて、

「寝相は如何に、武士は枕につきても行儀正しくするものぞ」と

仰せつけられ、枕の片寄れるを見ては、手ずからこれを改め

直させ給ひしことも折々なりき、然りしかば近侍の人たちも

斉昭の仰せを承りて、公の枕の両側に剃刀の刃を向けて立て置く」

 

寝相を治すために枕の両側に剃刀の刃を置いて直させたといいます。

教育パパを通り過ぎてますね。

慶喜は、本を読まないので再三叱ったが、それでも、

本を読まないのを見た斉昭は座敷牢に閉じ込め、それには参ったのか慶喜は本を読むようになったといいます。

とにかく子煩悩な父であり慶喜に出した手紙でも100通以上で

身体によいから黒豆を食べなさいとか、牛乳を一杯飲みなさいとか

きめ細やかで、娘が伊達家に嫁入りした時は、

娘に牛乳を毎日飲ませるために

嫁入り道具?に牛を加えて連れて行かせ、やむなく伊達家も

牛小屋を作り、毎朝、毒見役は牛乳を飲んでいたといいます。

斉昭から慶喜への手紙 125通

ただ戦国の武将・伊達政宗もまた子煩悩で手紙も多かったですね。

 

広島藩浅野家の藩主であった浅野候も語ってます。

「藩主の日常というのは誠に厳重なものでありまして、例えばちょっと外に出るというても、東の門から出て西の門から帰るというのは

出来ません。

西の門の方へは何らそういう通告が渡っておらぬからです。

私も一度そういう事があって、西の門から入ろうとしたが、

どうしても門番が入れない。

幾ら藩主であるとか、殿様であるとかいうても、通知が無ければ

入れませんという。仕方ないから、前に通知してあった東の門から帰りましたが、これは私の過ちで後から門番を賞したことがある。

藩主たるもの、よほど諸事に油断なくしていかなければなりません。

 

幼いころから、このように毎日が規格された日を送ってるので

左程不思議には感じないが、でも、明治になると思うのは

「自分の前と後ろに人が立ってないと、何となく物足りないような

淋しい気がする」と述べてます。

気分悪いからちょっと横になるのも家来の許可が必要なのです。

 

又、殿様に仕える小姓の様子がありますが、何もしないで

じっと座っている。

これも大変な仕事ではあります。

殿様の前で粗相をしてしまった例もあります。

 

14代将軍家茂が書道の稽古してる時の事です。

古希を過ぎても家茂の書道の師であった旗本が、或る時、

家茂の机の前に正座していて、少し、失禁してしまった。

大いに慌てて苦心していたが、家茂は、机の上にあった

大きな水入れを師匠の頭に掛けて、手を打って笑い危機を

脱することが出来たという。

師匠は感涙を流したことがあったという。

「江戸 お見合い 絵」の画像検索結果

大名の結婚というと閨閥などの政略が絡んでるのが普通で、

財政が詰まった時代には、花嫁のもたらす持参金が目当てのものも

合ったようで、藩の貧乏財政が少し息がつけるからです。

 

武家の結婚というと、主君の命や親からの言い渡しが通告が

命令であり嫌も応もなく互いに顔を見ることも無く式当日を迎えた。

町人の場合はそうではないが、武家の場合、顔を見るお見合いというのはやっと天保年間になってからだという。

華の文化文政年間が終わってからの事ですから、意外にもかなり

遅かったのです。

 

これは、上流階級の女性にとっても、時代が離れた明治になっても

同様であったようです。

田安家に嫁入りした大垣戸田10万石の姫・元子の例です。

田安家は、今回の相手の父と慶喜の長女(鏡子)が14歳の

時に結婚したが、直ぐに長女は死去しています。

子供が4人居ました。

後妻は、島津家の姫でした。

今回の相手は、その息子です。


 

花嫁・元子は13才になる手前でした。

学習院の女子部の2年でした。

お見合いという事を、祖母に聞かされて、当日、袷に海老茶の袴

という学校の制服姿で華族会館に行きました。

制服でのお見合いです。

華族会館は、前の薩摩藩の中屋敷でした。

主に朝鮮使節の控室として使用された。

 

この頃は、江戸時代と同じく婚期が早かったようで、しかも、

結婚式当日まで、相手の顔を見ることが無かったようです。

 華族会館
 


結婚に繋がるものであるらしいお見合いだという事に気づいた

私は、戸惑いと恥ずかしさに上気してしまった。

いつ終わったかも知らないうちに、帰宅し、お相手の顔は

とうとう見られませんでした。

 

家に帰ったら、貴方のは「お見合い」ではなく「お見られ」だと

云われたのです。

 

後で聞いたところでは、相手は、宮家からもポツポツ縁談が

起きて来たが、宮家から貰う訳にもいかないので、適当な

相手を探していたという。

一方、こちらは、母を亡くした私を祖母が心配し、自分が

老い先短いのを考えての事だったらしい。

夫21歳でした。

 

大正15年、18歳で結婚。

この日は、支度に時間が掛かるので早く起こされました。

髪をおすべらかしに結って貰いました。

固形の油で髪を立てて前髪を立て、後ろに下げた髪の毛に

かもじを足して奉書で巻いて元結いで縛ります。

  付けた方によると、大変暑苦しいものだそうです。
 

 

着る物は、袿袴(けいこ)と云われるもので、海老茶色の袴に

同色の沓、上着は赤地に菊の花の固紋を固く織りだした

厚地の西陣で、何枚かに重ねた色とりどりの襟が付いたもの

でした。

十二単衣は、皇后が式時に着る物で、臣下は袿袴(けいこ)を

着るものでした。

緋色の袴は、娘の物ではなく既婚者のものだという。

 

十二単衣は重かったと、高松宮妃は述べてます。

ようやっと歩いていました。と。

 袿袴(けいこ)
 

 

三田の新居の家の大きな応接間の床の間に、天照大神の

掛軸を掲げ、仲人の徳川家達夫妻(田安家当主の兄)始め

出席し、神主が榊で御祓いし三三九度の盃事をし、終わりました。

 

この後が省略されてますが、この後のしきたりも大変なのです。

取り敢えず、婚家に云ったら、実家の母に手紙を書かなければ

なりません。

これが、奉書に筆で候文で書くのです。

昭和に入っての事で、候文は勿論習っていません。

従って、これを巡っての喜劇も起ります。

その辺は、後でしっかり書いてます。

 

それ以外にも、親類への回礼、そして、里開き(里帰り)など

それらだけで3日間くらい掛かるのです。

流石に、どちらの本も犬張子の話は出てません。

「江戸 お見合い 絵」の画像検索結果

町人の場合は、浄土真宗の御講を利用して、或いは、浄土宗のも

ありました。

正に神仏に縋ってのお願いです。

ちなみにお見合いは、

もっとお金の掛からないものが多かった

ここでもお互いに正面から会わせずに、すれ違うようにする。

すれ違うように 仲人工面し

恥ずかしいので顔を袖で隠しながら、

今では見られない風景
 

少し金を掛けると水茶屋を借ります。

それもやはり同じ茶屋ではなく、隣り合った茶屋を

借りて行う。

勿論、偶然落ち合った形で水茶屋でもします

その際は、「気に入らぬ方が先に席を立ち」

目出度く結ばれることも多いが、その逆もあります。

離縁の話が進まない場合、女性は駆け込み寺を使って

別れることとなる。

江戸の女性の場合、その時は、鎌倉の松が丘御所と尊称された

東慶寺に駆け込む。

 

東慶寺には5つの塔頭があった。

妙喜庵、青松庵、永福庵、海朱庵、蔭涼庵があり、5つの小さな

寺の集まりだった。

 

いきなりですが、ここで町方の場合の離婚について
当然ながら三行半が必要になります

その場合、請求できる場合として次の条件が有ります。

①承諾を得ないで妻の持ち物を質入れした時。

②夫が家出して10か月以上行方不明の時。

③妻が縁切寺に逃げ込んで3年を尼でいた時。

縁切寺は2ヶ所あった。

鎌倉の東慶寺と群馬・太田の満徳寺である。

 

下記の文面は、満徳寺離縁状と呼ばれ、仏教用語が用いられた

独特の文面を持つ。

   離別一札之事

一、深厚宿縁浅薄之事
  不有私 後日雖他え
  嫁 一言違乱無之
  仍如件

弘化四年   国治郎 爪印
八月 日
    常五郎殿姉
     きくどの

 

離縁の理由は、古今東西変わりません。

稼ぎが無い。

暴力を振う。

これが主な原因であったようで、現代も同じです。

 

「貞女たてたし間男したし」

ハムレットの心境ですか?

男にとっては魅力のある女であったに違いない。

 

ちなみに、爪印は男は左手の親指、女は右手の親指。

当時の考えであれば、右尊左卑主義だから、

男が右であった方が自然だが、何故か左である。

 

「古事記」にあるが、

「陽神は左より回り、陰神は右より回る」

からなのか判らないが、江戸時代は、

主に左が重んじられた。

というよりも朝廷での位としても、

左大臣の方が右大臣よりも上位とされていた。

追う亭主、必死に逃げる女性、草鞋を寺に投げ入れた。メタボンのブログ

 

寺にいきなり逃げ込むのではなく、御用宿(寺)に入り入寺を願う。

そこで寺は亭主を呼び出して事情を聞き調停するのである。

 

寺の規則では、離縁の場合、2つの方法があった

一つは、寺法離縁といい、在寺3年で夫から強制的に

離縁状を出させる。

 

「誰々妻の駆込みの件で、松岡御所の役人が

何日に行くので、夫ともども家にいるように

もう一つは、内済離縁でした。

これは、寺の仲介や調停により、示談でするもので

妻は入寺せずに離縁が成立した。

そこで亭主が離婚に同意するが多かったが、しかし、そうでない場合、

寺に入り3年間尼で過ごすのである。

江戸時代、東慶寺だけでリスタートを切った女性は

2千人を数えると云われた。

 

東慶寺の駆け込みは不思議に朝方が多かった

どうしても円満にいかないと思う女性は決断します。

午後になると

 

 

 

駆け込み成功、中に役所が有ります。

 

御調べを受け、寺内にある役人の詰所から

御用便で関係者へ呼出状が送られる。

「継飛脚 絵」の画像検索結果

御用便とは、幕府の物ですから、民間の飛脚とは

かなり違い正確であったようで、代官なども

私的なものも公的な文書と一緒に送ったようです。

地域によっては、かなり遅れてしまう。

これはまだ十分整備されてない地域が多かったようです。

川渡しが川止めが解除されて最初に渡るのは、大名行列ではなく

この公文書を運ぶ飛脚が最初で、それだけ重要であるとされた。

 

但し、この御用便は高いものです。

御用宿が6人の飛脚を常雇いにしていて、1里に付き100文、

江戸まで13里ですから1300文、往復ですから2600文、

大体1両の半分が飛ぶ計算です。

御用便ですから江戸に居る呼び出しを受ける人は、支払いを拒めない。

大変な出費になった。

 

呼出状は強制力を持つものであるから、出頭します。

そして、門前にあった3軒の御用宿

(柏屋・仙台屋・松本屋)に

其々別にして宿泊させられる。

 

この場合、関係者・夫と妻の関係者はは同じ宿には泊まらない。

必ず、他の宿に泊まるのです。

因みに宿賃は、230文、妥当な価格でしょう。

しかし、裁判が長くなると金の用意が無い人は大変です。

他には御所に納めるお金として

御取り上げ賃が千文、お役人へ千文、御門番へ100文、

合計2100文掛かる。

 

他に離縁が決まった時の東慶寺内での生活する寺が割り当てられ

それは勿論金次第です。

金30両は上臈格で仏様に花供物の世話をする

金15両は御茶間格、室内の掃除、尼さんの身の回りの世話

そして最下層のお半下、これは15両以下の者で、炊事洗濯掃除

何でもやります。

地獄の沙汰も何とかで、逃げて来ても此処でも試されるのです。

 

そして、厳しい精進生活に耐えかねて、脱走を図った場合は、

厳しい処置が待っている。

 

寺法により、素裸にされ、丸坊主で門外へ追い出される。

仮に脱走が成功しても、人別から除外されるので無宿人

となっていくのです。

「出雲にて結び、鎌倉にてほどき」

 

さてその前に御用宿の亭主が、ここで和解調停を試みるのです。

現代の家裁の調停人の役割です。

女実親呼出状

嘉永2年(1849)の例では、下記の条件で内済となった
1.きん2朱と木綿1反、古い夜具と布団を夫方へ返還
1.夫宅から1キロ四方で妻は縁組しない事
1、夫は寺へ寺宛ての離縁状を提出する事。
以上の条件で妻は3年間寺に入った。

 

やはり、この当時は布団は高価なものです。

農家でしたら藁が普通でしょうが、もし、

綿入りの布団であれば、それは、勿体ないという事で、

返せと言われたのでしょうね。

布団を質に入れるケースもあったくらいでした

 

和宮の降嫁の行列が街道を通過す宿泊する時は

人数分の布団そのものの数もないし、

第一藁が殆どでしたから、

やむを得ず買ったようですが、後のちに借金となって

大変であったようです。

綿入りの布団というのは、つい最近?で昭和に

なってからですね。

損料屋の貸し布団
 

 

 

東慶寺の離縁状は、一定の型であり、

典型的な三くだり半で

この形式と中の文面が多く使用された。

その文面で共通してるのは

「その方事、我等勝手につき、此の度離縁致し候、

然上者、向後何方え縁付候共、

差構無之候、依而如件」

 

あとは、離婚理由が、勝手に付きでなく、

他の文言を使用するかであった。


 

若し、離縁状が無い場合についても男女共に、

(御定書」には罰則が記してある。

1,離別状遣わさず、後妻を呼び候者所払い。

 但し、利欲の筋をもっての儀は候は、家財取上げ、

 江戸払い

1離別状取らず、他へ嫁し候女、髪を剃り、

  親元へ相帰す。

 但し、右の取持いたし候もの過料

 

1離別状これなき女を縁付け他へ縁付け候、

  親元過料

 但し、引取りの男同断

 

所払いの刑
 
 

この中にあるように、夫が妻に離縁状を渡さずに

再婚した場合も江戸所払いの罰則があった

ということは、夫は妻に離縁状を渡さなければならないが、

その時、受取書も貰う必要があるのです。

「離縁状返り一札)といった。