この汚いといわれた水の事を江戸人が知らなかったのかというと、
そうではないようです。
「江戸愚俗徒然噺」では、「見ぬ事は清しといふ也。
江戸の水も源を悉くに吟味するときは飲むことなるまじ。
野菜とても食う事成るまじ。
根元は田の水、ドブの水も差別なく入るなり。
雨天の節は、如何に汚き泥水なども多く流れ入ればこそ濁るなり」
従って生活用水は井戸ばかりではなく、水便の無い下町には
特にですが、上水の余り水を舟で行き、水を桶に組んで
水舟として水を販売した。
これを考えると大店などは水銀(水道代)を間口の広さで
計算されたので最盛期の越後屋などは間口30間でしたから
月に5両の水道代が掛ったのです。
風呂の名称は、西と東で異なり、西では風呂屋。
東では銭湯或いは湯屋と呼びます。何故かは分かりません。
江戸に初めて銭湯ができたのは1591年(天正19年)銭瓶橋の辺り。
「そぞろ物語」にあります。
当時は蒸し風呂。蒸気で体を蒸し、竹べらで湯女がそぎ落とすものでした。
男は風呂褌、女は湯文字を腰に巻いて入り宝永の頃まで続き
その後無褌で入る「湯」になったと、山東京伝の「骨董集」にあります。
湯銭は、途中までは8文、幕末のころは16文、最後は24文。
うどん・そばと同じです。床屋(髪結い)さんは20文くらいでした。
ちなみに、髪結いの「結い」は「言い」と同じとされ、
床屋さんへ行きお喋りを楽しんだからとも言われている。
柘榴口比較

銭湯の構造としては、入り口をザクロ口といい背が低く、
大人は背を屈まないと入れず。
その役割としては、密閉状態を作り(サウナ)温度を高くし、
客の滞留時間を短くしようとした。もう一つは、
暗くして湯の汚れを見せないようにした(汚ねえ…
)。
風呂の大きさは大きく20人以上は入れるくらい大きい。
もう一つ、中は暗く(真っ暗手探り状態)、中は一緒(混浴状態)に
なってるため、時にアクシデントが発生することもあり、
幕府はしばしば混浴禁令を出したが根絶せず、
明治2年になってやっと根絶した
「人同じからずと湯屋で発明し」作者不詳
営業時間は夜明けから営業!但し、日没後まもなく閉店。
江戸は風が強く埃っぽく、夏などは堪りません。
(道は馬糞がそこら中にあり。それを集める商売の人もいます)
負けずに犬の糞も非常に多かった
伊勢屋稲荷に犬の糞といわれたくらいです。
ちなみに江戸の様子を記している本もある。
それによると、
「土は灰の如くにて、雨天には泥中を歩むに異ならず。
昼は日中の暑さは、殊に激しく焼くが如く、朝夕は打って変って
涼しく、終日の雨なれば単衣にて凌ぎ難し。
冬は寒気は若山に3倍し、山の手は土凍りて、朝毎に霜柱2,3寸
立ち、土を高く持ち上げて、
午前8時より溶け始め木履でなくて往来成り難し
晴れには風吹かぬ日は少なし、強く吹く日は土煙り空に漲り、
衣服足袋を汚し、目を開きて往来成り難し」
そして、32文で粗末な防塵眼鏡を売っているとある。






