ちょっと意味は全然離れてるが、挨拶で別れる時に

「さようなら」と言うが、これは天明の頃らしい。

大飢饉で東北地方で10万人以上の死者が出た時です。


それまでは、「御機嫌宜しゅう」

これは、明治の華族社会で使われ

学習院では今もそうであると思う。

又、「さらば」、女なら「おさらばえ」。

おさらばえ、は御殿医の娘・みねが維新の時に、

霊岸島の屋敷を退去する時に、

この言葉を使ってましたね。




天明の頃の川柳で

「はい左様なら ともやいを女房とき


もやい、とは舟に付いてる綱のことである。

この辺で、庶民では使用されていたようである。



そこをよくたてや と嫁手水(ちょうず)」

手水とは、小便の女言葉。

トイレの事を江戸では、婦女は「後架」、

男子は「手水場」(ちょうずば)。

普通は、後架が多く、又、手水場ともいう。

雪隠は稀なり、と「守貞漫稿」にいう。


明治になると、日本も軍隊から洋式化が進み

海軍はイギリスの教育を受けたので、便器も

座るタイプであったようだが、大半の兵士は

知らないから、その蓋の上に座って用を足したという


また、小便器は、側溝があるだけであったという。

今でも古い

共同便所などで見かけるもので、仕切りもなく、

並んで用を足すものであった。


大便器は、更に開放的で扉も仕切りもなく、洋式の便器が

ただ腰掛けのように並ぶだけで、外からも丸見え、

お互いも丸見えだった。便器に腰掛けると幅1メートルの

通路の向こうに小便用の側溝があったという。




陸軍では厠と呼びました。

川の傍にあって流したもので、そういう意味では水

洗トイレです。

こちらの方が扉がありました。

それで多かったのは、自殺が多く、

又、こちらで新兵たちが差し入れで貰った甘味などを

秘密に食べる所であったようで、

ただ、これは買って誰もがやってきたことですから

すぐばれたようです。


昔は大阪の人たちは、トイレの事を高野山と呼んだ。

転軸山から四十八谷を

流れる川の水を山内に引き、

各所に厠を設けて流していた。

だから畏れ多い水なのです。


糞尿を含んだその水は、下水を通り、田畑を大いに潤し、

栄養を与え流れ下り、奥の院一の橋から南に一里、

約四〇mの大滝となって有田川に注ぐ。


この大滝は、「糞滝」と云われ岸壁には清めの不動が

刻まれ祀られている。

とても香りの好い不動なのです。


しかし、川下の住民にとっては、水量のある季節はよいが

真夏の日照り続きになると、堪えがたいものになる。

汚物が流れず惨澹たる有様になるからである

川柳にも「旱魃に 高野の奥は 糞の山」



手水場(ちょうずば)



そこをよくたてや と嫁手水(ちょうず)」

句は、嫁が内後架(家の中の便所)に入ろうとしたが

音が聞こえるの嫌なので下女に、トイレの戸は勿論、

後架に通じる廊下の徒を締めろと言ってる


小便といえば、京女の立小便、これは外せません

何しろかつぎを被ったままで道端でするのですから

全国的に有名だったのは、色々な本で紹介されて

るので判ります

如何にも立小便風でしょう。

ところが違うのです。

後ろから致してるのです。


こちらは正真正銘の立小便



滝沢馬琴も、それが日常茶飯事で有る為、

当人も恥じ入る事無く

それを目にする人も笑う事も無いとし、

驚きの目で記録している。

上方では、これが普通だとしている。

清野や宅子も金沢あたりでみてます。

金沢は京文化の影響を強く受けた地域ですから

一緒にそちらもそうであったのでしょうか?


蜀山人こと太田南畝も、大坂の銅座に役人の時、

出張してるがこの事を

「田舎に勝る汚さは

軒を並べる町中で

おいえさんでもおうちさんでも

くるりとまくって立小便」

今日は貴賤に関係なく、皆するのだと云ってる。

1千年の都・京は、立小便の都でもあったのです。




「一時に小便京の人けろり」

列を作って小便をしてる様子です。


そして、使用された小便桶からは、

定期的に汲み取って

畑の野菜に撒かれ、出来たものは

朝の御汁の実となる

「上方は 小便朝のおつけのみ」



江戸は、小便は下肥にはしないので、

余計に奇異に思える。


戸では立小便をしなのいかというと、農村では普通。

農作業の時などには、道端で行う、

普通は蹲踞して排尿する。



日本で最古の説話集である「今昔物語集」には、

石垣に向って放尿した女が蛇に狙われて

動けなかったという話がある

山出しは向きを間違えて小便し



江戸に来て間もない下女は、普通は、

通行人と顔を合わせない様に

通路の向う側を向いてするが、

山出しの下女は立小便が癖なので

通路の此方に顔を向け、尻を向うに向ける。


これは、幕末、日本が旅が一般化してからは。

地方から観光に来るが、それを案内する人を

「もさ引き」といった。

1組幾らで案内をしたようで、時間が限られてる人を

効率よく見て回るには便利で大きな町、

江戸や亰・大坂、奈良などには職業としてる人が居た。


大体が江戸でしたら馬喰町の旅籠が観光案内書を

発行していて、応募して来た人を、旅籠から紹介されて

仕事としていた。

相場は1組500文くらいでした。


そうした人が、江戸に来た婆さんが、街角の天水桶を

小便桶と間違えて、後ろ向きに立小便をするのに驚いた。




この立小便が現代姿を見せない理由としては、

今の女性は下着やパンストを穿く事が挙げられ

もう一つは、小さい頃の習慣でもあり、昔のように

裾をまくると素裸になれたことも大きいといえる。

それと付け加えると、立小便の場合、尿がどの辺に

落下するのを予測も出来ないかもしれない。