2月9日は針供養
裁縫に使った針などを供養する
ただ、上方の方では11月にする。
江戸城大奥でも、呉服の間があり、そこでは、
儀式用の装束以外の衣裳を作ってたが、
針供養は11月9日でした。
これは、御台所を亰から迎えていた関係なのでしょうか?
針仕事 歌麿
供養ですから1日休めそうなものですが、何分か
早くしまうくらいのものでした。
部屋部屋では、針供養のオミオツケといって、
持ちよりで牛蒡、人参、小豆、焼豆腐を入れた味噌汁を
あつらえ3度まで替えて食べるというのが
例になっていました。
呉服の間では、針一本無くすと首であったそうです。
従って、一日の閉めに針を数えますが、
その時、1本でも無いと針が出て来るまで、
庭の石の下まで針を求めて探します。
出て来るまで帰れません。
その代わり、その間は御馳走が出てもてなしてくれます。
ちなみに針を無くした時には、短歌を3回唱えると
針が出てくるといわれてました。
「清水や音羽の滝は尽きるとも
失せたる針の出ぬことはなし」
この歌の由来は判らないが、「古今和歌集」の
「いずれか歌を詠まざらん見えぬ針」から
来たものでないかと思われる。
当時は、針仕事をしてた時に、やむなく中座する場合は
糸の付いた針を近くにある行燈の張り紙にプツンと
差しておくのが女としての所作であったという。
今では、忘れられたものです。
「嫁大声を上げ 針が出やしたよ」
安心したのか嫁が対大声を上げてしまった。
姑に無くした事を咎められたら大変と、呪いの
歌を詠って必死に探していたのでしょう。
ついでに呉服の間を状況を、和宮の呉服の間に
勤めてた女中の言う事には。
部屋は4人の相部屋でした。
住んでいた部屋の描写です。
オカンベヤ(お上の部屋)15畳くらい、
それに沿って次の間があり、次に広き台所あり、
主人は1人にて1つ宛ての流しと竈を有し、
別々に炊げ、廊下の一方に湯殿と便所と
薪部屋がある。
廊下は皆縦張にて、5分ほど隙が空いている。
側と側の間には、軒から軒へと金網が渡してある。
従って、女中は陽の目を見る事が出来ず、
土廊下を歩く時だけ土を踏みたり。とある。
夏になるとお白(衣類)を張るのに糊を挽く。
米を水につけて置き、それを石臼で水挽きして
瓶に取り、水をよく取り替えて、
熟した時分に取りだし、解いて糊にし、お白を張る。
糊を挽く時は、方々の部屋方が手伝いに来る。
その時に歌う糊挽歌。
♪「わたしゃ深川貝殻育ち、貝の柱に蠣の屋根
仇な浅蜊とそうより、わたしゃお前さんの「バカ」がよい
今度来てみな小鳥が住むよな小池にさぁー、
鴨が3ツに三所、三々が九ツ、白鷺三羽に鵜が七つ
今度両国見世物見たか、犬と猿との御相撲取り、
犬がワンと飛びつきゃ、お猿はドッコイやらぬと勝を取る。
見上げてみれば御本丸、見下せば「ゴザイ」部屋、
打てば間誤々々背負出す、そりゃーなーんよぇ。」
歌の終わりには「ヨーイヨーイ善い粉が出来たぞぇ」
長局を見廻る時、よくこの歌が聞こえたという。
唄も都都逸を唄ったりすることも有った。
御本丸言葉で終了の事を「見上げる」といいます。
「さぁ、見上げませう」というと、
一同で♪「見上げれば御本丸 見下ろせば蓮の池
中にチックリ 辨天ナーイヨエ」と唄う。
それで臼挽きを仕舞うのが常でした。
又、16代徳川家達家では、娘が針について記してる
15歳の年には、仲秋の名月の日、
庭に出て針に糸を通す。
一度ですっと糸が通ると、其の人は運が良い。
私は15の時、見事な満月で、見事に糸は一度で通った。
でも、妹の時は、曇っていて、雲が流れていて
月が見え隠れしていて、大変であったようでした。
島田髷
又、この他には、年齢は特に決まっていなかったが、
18歳の頃には「初桃割」、20歳の頃には
「初島田」を結いました。
鬘ではなく、地毛でしたので、早くから髪を伸ばし、
髪を結った日は、夜も眠れず、朝は目が腫れて
恥ずかしかった事を覚えてます。
こうした行事は、今は影も形も残ってません。
お事始めも。
男ではないですよ。
笑い話で出る話です
娘の自己紹介で、お琴を少々、というところを
男になってしまった。
まあ、結ばれない縁であったのかも。
事始めとは逆にお事納めとも云われる、
正月が終わって通常の生活に戻るという意味で
いずれにしても区切りの日であった。
この日は、江戸中に竹棹が空に立てられて、
まるで箸を並べて立てた様であった。
竿の先には、丸籠がひっかけてあった。
これは災厄や病魔の家への侵入を防ぐという
意味で節分にも似た儀式であった。
当日は、御事汁も出ます。
小豆入りの汁で、小豆の他に、牛蒡、大根、芋、
豆腐、焼栗、クワイ、を入れ味噌で煮込む。
多くの種類の具を追々煮ていくので、追々が
甥甥になり、従兄弟汁とも呼ばれた。
結局、小豆は赤色であり、赤は魔除けになるという
信仰からのもでした。
疱瘡の時もそうでした。
身に付けてる物も勿論、部屋中のものを赤くして
病魔の退散を祈りました。
当時は祈るしか方法が無かったのです。
早く出てって下さい!
お雛様が終わると、桐の箱に樟脳と共に入れられ
来年の出番を待つ。
本当は、桐の箱に入れるが、
庶民はけんどん(うどん)の箱へ。
江戸は蕎麦といわれるが、当初はうどんで上方は
蕎麦でした。
けんどんというのは、今も残ってる言葉で「突慳貪」
これは、無愛想で客に愛想の一つも言わず、
それどころか早く帰れといった態度の店であり
慳貪屋と云われた。
この日は、何故か、あさつきの膾を食べる。
アサツキというのは、匂いがきつく、
女性には人気の無い食べものであり、
当時の人も、何故食べるかは判らない。
名付けられた。
何故、この日に食べるかは、3月4日は奉公人の
契約更新日であるので、この日に、
あさつきの膾を食べたので
それが、ついでにお雛様にもとなったのか?
又、納め雛の時には、蕎麦を食べる風習があった。
「2つ3つ蕎麦屋4日の忙しさ」
もりそばの注文で大忙しの蕎麦屋の光景。
3月は奉公人の出替りの月である。
契約期間を越えるので、延長するか転職するかの
時期である。
「そちは2世 あれは3月4日まで」
下女にうっかり手を付けた旦那、女房に咎められ、
お前とは2世を誓った仲だが、あれは3月4日までと、
苦しい言い訳です。
ちなみに前日の3月3日は、大潮で干満の差が大きく
潮が最も沖に引くので海が干上がる。
それで、江戸市民は潮干狩りに行った。
「東都歳時記」によると、「芝浦、高輪、品川、
佃島、洲崎、舟に乗じて遥かの沖に至る。
海底陸地と変ず。
此処に下り立ちて、牡蠣、蛤を拾い、砂中のひらめをふみ、
小魚を得て宴を催す」
蛤や浅蜊や小魚など取って楽しんだ。
ちなみに、幕末、蛤の値段は1升6文だったというから
安かった。
140円くらいですか。
子供の頃の話を思い出します。
この浅蜊と蜆の行商が来ましたが、
年寄がその売り声を嫌がりました。
「浅蜊、蜆」これが(あっさり、死んじまえ)に聞
こえるのだそうです。
そして浅蜊はもっと安かった。
然し一番とれたのは浅蜊でした。
味噌汁が多かった。
「擂鉢を とりまいて食う あさり汁」
殻が一杯でます。
潮干狩りは、縄文以来であり、各地にある貝塚には、
実に350種の貝類が存在し、古代の海が豊かで
あったことを証明している。
同じ頃、白魚の季節ですから将軍の食膳に
雛の節句まで載せられた。
白魚は、頭部に葵紋に似た斑点があり、又、徳川家は
源氏の棟梁であり、平家の赤旗に対して、白旗であり
白魚も又白であったので余計に保護された。