ちなみに遺跡の発掘調査では、江戸時代、

女性だけが使用したトイレからは、

堆積物の中から、鉛分と紅花が検出されるという

これは、鉛は白粉に含まれるものであり、

それがはがれて落ちたと思われる。

かなり白粉はつけてましたからね。

白壁づくりとまで言われた。

京伝来の化粧です。


遊女もかなりつけてましたが、あれは暗かったのも

あるんですね。

吉原八朔

江戸新吉原八朔白無垢の図(えどしんよしわらはっさくしろむくのず)


もう一つの紅花は、漢方薬として婦人病に使用された

為であり、その為2つの物は検出される。

紅花というと御存じ、口紅の原料であり、

非常に高価なものであった。




[頬紅は桜の花房 目の上の紅はきりりと目立つ」

「和漢三才図会」には、

「羽州最上及び山形の産良とす。

伊賀・筑後これに次ぐ。予州の今治及摂播二州の産

又これに次ぐ」


紅花の花を水に浸して布の袋に入れ、

灰汁を混ぜて絞り、それに

米の醋や梅の醋を入れれば、濃い紅の凝りが出来る。

是を刷毛で器に塗り入れて貯える。

寒中の十二月のものが最上とされる。


出来上がった紅は、金と同じくらいの価値があり、

売価もそれに匹敵した。

「紅1匁、金1匁」と云われました。




文化年間(1810頃)口紅を一付けしただけで

30文といわれた。

安い口紅なら32文とか48文であったが、やはり、

1両とかの高級な値段のものが人気であった。



貴重品ですから、「紅を口に塗る時は

下唇には厚く塗り、上唇には淡く付くべし。

上下共に濃は賤し」とある。


又、当時、疱瘡の見舞いとしては赤い色の物が

贈られた。


疱瘡には赤い色が有効であると思われたからです。

赤飯や紅絵、紅落雁などの菓子も多く、

赤色を出すには、紅花が用いられ漢方でも

腫瘍の薬として使われたことに

関係するかも知れない。

疱瘡まじないとして、兎進上」というのもある。

兎の目が赤いからかもしれない。

玉屋店頭


紅といえば、やはり、丑紅です。

これは土用の丑の日に販売された紅を買うと

値段によってですが、撫丑を貰えたのです。

撫丑


又、当時は、夏でも冬でも土用の日は鰻を

食するのが普通でした。

夏だけではないのです。

「寒中丑の日、丑紅と号て女子紅を求む」


口紅は、この日に買った紅は薬になるという

俗言が有ったからである。

唇が荒れないとされたのです。


本町にあった化粧品屋の玉屋は、屋上に

真紅の紅花の旗看板を立てて、

販売開始を告げました。




行商で紅を売りさばいた実績の歌舞伎俳優も

いました。

市松模様で知られた当時人気の俳優である。

市松模様


「賀の祝い おまんが紅を つけるなり

女形の佐野川市松が、女に扮して紅の行商を

宣伝したのである。




「おまんが紅」と称し、江戸中橋にお満稲荷があり

そこで願掛けをするとよいとされ、

行商人は、手に紅猪口と紅筆を持ち「べにや」と

書いた赤い木綿の旗を持ち、背負った箱には

京橋・中橋と書かれ、紅だけではなく

白粉や櫛や鏡なども売っていた。

お猪口紅

子供は、空の赤雲を見て手を叩いて謳ったという

「尼が紅付けて、ととやかかにいはうようにいふたら

大事かそっくりよ、坊主坊主大坊主」


又、長寿の御祝に「寿餅」と称し、餅を饅頭型に

作り、頭に紅で「寿」と本人が書き、還暦・

古希・喜の字祝・米寿などの節目に

近隣や親せきに配ったという。



大坂には、「天満おやま紅粉屋」が有名で

「おやま紅」の名で知られ、この店の売り物は

直径1mくらいの大きな鏡で、その中には

坐っている美女と、後ろで髪を梳かしている

女の上半身が有り、それは左勝手に

(現実とは正反対に)描かれていた。


これが評判になって、記録には鏡立てに掛けた

鏡の中で、紅猪口の紅を溶いたてる美女がいる。


江戸でも、この「おやま紅」と「小町紅」が販売

されていた。

紅は京が本場である。

小町紅

絶世の美女・小野小町にあやかった商品名で、

京都で作られた

亰は紅を抽出する高度な技術を持っていた為である。

全国の紅花がここ京に集められたのです。

京都紅花問屋

特に良質な口紅のことを指して小町紅と称した。

名も高き 花も都も 小町紅

小町紅の店として亰の紅屋平兵衛がある。

略称「紅平」、御所にも納めていた御用達である。


「美男美女 蜆と紅に名を残し

在原業平と小野小町のことである。


鏡の話もちょっと。


白粉で鏡を拭いてます。

どうして白粉でとお思いますが、当時は鏡は

水銀を使用したからでした。

白粉は、水銀と鉛とで作られてます。


今のように、サラサラした白粉ではなく瓦板状の

もので平たい形でした

それに水を足して練り、掌でよく練って顔に

付けたのです


更に、白粉を溶く水も、寒中の雪水を使う事を

「都風俗化粧伝」は推奨している。

この水なら、光沢をだし、色を白くし、あせもを治し

もろもろの顔の腫物が生ずる事無し、とある。


水銀で作られた白粉は、御所白粉といい、

将軍御台所は、これを使ってましたと、大岡ませ子が

述べてます。

御女中は、江戸の白粉を使っていたといいます。

鉛から出来た白粉は、庶民が使用したという。

さて、鏡研ぎは、「守貞漫稿」には、「平日も

来たれども寒中を専らとす」とあり、冬の行商で

ある事が判る。


女を磨く鏡は、銅で出来ている。

1年に1度は表面を磨く必要があった。

これを磨くのが鏡研ぎ師でした。



この職は、加賀国からの出稼ぎと決まっていた。

加賀藩は、50歳以上の者と、2,3男で農家の仕事に

支障の無いものとを選び許可を与え、日限を切って

必ず帰藩する様にという御定書があった。


これは幕府にも公認で、関所も通過でき、渡船料も

無料だった。


研ぎ方は、炭でよく磨き、焼明礬に砥の粉を混ぜて

磨き、更に水銀と砂利を混ぜた練液で磨き仕上げる。


鏡研ぎ 中条流も 知っている」

中条流とは、中絶の堕胎医で堕胎させるために

水銀を使った。

そこで、鏡磨きを頼んだときに、訳ありの女性は

鏡研ぎに相談を持ちかけている。

中条流