話は大阪城での晩餐会に戻ります

話があちこち飛ぶのがこのブログの特徴です

慶喜の必死の外交攻勢が行われ、その結果

然し巻き返しを恐れる薩長側は、小御所にて会議をし、

徳川を賊軍として決定します。

王政復古の大号令です。

欠席していた慶喜ら徳川軍は激怒し、

軍を進め鳥羽伏見の戦いが起きます。

 小御所会議
メタボンのブログ

戦いの最中に錦の御旗を見た慶喜は、

賊軍として後世に名が残るのを恐れたのでしょう。

敗れた後、強硬派である兄弟の会津・桑名藩主を

無理やり連れて、決戦論で渦巻く大阪城を後にして

軍艦で江戸へ帰り、恭順路線を決定します。


その後、会桑の藩主兄弟には近寄らない様に

言い渡し、やむなく兄弟は東北北越に向い

抗戦を展開し破れ賊軍として厳しい処分を受ける。

砲弾の穴だらけの会津若松城

しかも、大阪城を退去する際、一旦はアメリカの軍艦に

乗り、その後幕艦に移動するが、事前に、

メリカ側に軍艦に行くことを要請しておいた。

つまり、突然の行動ではなかった。



そして、寛永寺で恭順の意を表しますが、

実は、寛永寺は慶喜が寺に

来ることを歓迎しなかったという。

その理由として、慶喜の父・斉昭が水戸領内の

寺200寺を取りつぶし、

かつ、領民に葬式も神式で行うように命令し、

寺の梵鐘を大砲に鋳潰し、

寺院の敵」となっていたからである。

神道(水戸学)に偏り過ぎたのである。

これが寛永寺の記録にあるという。


この問題は、慶喜の葬式にも響きました。

寛永寺で葬儀をし、谷中霊園に埋葬されましたが

実はこの時も、寛永寺は葬儀を拒んだのです。

それに怒った旗本たちが押し寄せて抗議し、

やっと葬儀を受けたという一幕がありました。


慶喜だけが、代々の将軍が眠る寛永寺や増上寺

で眠ることを拒否し、神道で行ったのです。



慶喜には、側近がいて。その3人とも殺害された。

最初に中根長十郎、次に平岡円四郎、最後に、

原市之進。

平岡などは慶喜の母藩である水戸藩士に

よってである

これをどのように解釈すればいいのか?


確かに、橋本左内、長野主膳とか狙われるのは

側近である事は間違いない。

結局、大名というのは側近の言うとおりに

動くからという思い込みであったのか。

然し、慶喜ほど弁舌が立った人は

いなかったのではと思う。

誰であれ論破する。

自ら司会をやり、自ら問題を提議し、その議題を

押し通してしまうのである。


その弁舌の爽やかさは、イギリス公使のパークスをも

魅了したが、鳥羽伏見の戦い後、

大坂から浜御殿に戻り、江戸城に帰り、

璋院を相手に戦の顛末等を語ったが

同座した中臈の箕浦は、物がたって行く

その措辞の豊かさ、巧みさに、天璋院はまるで酔えるが

如き聞き入ったという。

慶喜の言葉は、あの歌舞伎の団十郎も

及ばなかったろうと明治になっても述べていた。


敗軍の将は語らずというが、見事に語ったのである。

そして、見事なのは、この後恭順の姿勢を示し、それが

明治になっても沈黙を保った事でした。

それがのちに、公爵にもなった要因でした。

政権をおおむね平穏に渡したという功績です。


弁舌の巧みさと強引さは、

徳川300年の歴史でも稀な資質であり、人はそれを

百才あって一誠無し、といったが、もし、慶喜に家康の

半分ほどの胆力・或いは戦をするんだという不動心が

有ったらどうであったのでしょう。


慶喜ほど薩長の首脳におそれられた人は

いなかったでしょう。

家康の再来とまで、過褒されたのです

勿論、慶喜も大阪城を脱出する時、老中に対して、

我が方に西郷・大久保の如きものは居るか、

居まいと云ったくらいに彼等を評価していた。


その証拠に、明治になって維新当時の人物の伝記が

発売されると、直ぐ取り寄せて読んだという。

特に、大久保に関しては全ての本を読み、

維新当時の裏側を知りたかったのか読んだという。


更に、慶喜は、「長州に関しては恨みは無い。

しかし、薩摩は違う」と言った風に薩摩については

恨みを持っていたようだが、実は、明治末期に慶喜は

島津家当主と家達の紹介で会っているという。

恨みを持たれてた島津家の当主、勿論面識は初めて

家達から、こちらが当主です、と紹介されると、慶喜は

「ああ、そうですか」とそれだけであったという。

胸中は如何であったのでしょうか?

それから間もなく慶喜は大正2年77才で亡くなった。


風邪から始まり高熱が出て、慶喜は「肺炎なら覚悟するが、

肺炎ではあるまいか」と医師に聞いた。

結局、急性肺炎であり、既に手遅れであった

臨終の直前、医師が慶喜に「お苦しゅうございますか」

と聞くと、慶喜は

「ただ衰弱を覚える。しかし、苦しさは去った」

と、正確に病状を伝えた。

それから数分後息を引き取った。


最後の将軍の葬儀には、旧大名約300名が参加し

驚くべき事に諸外国からの使臣が多かった事であった

特にアメリカは、大統領親書の形で哀悼の意を示した。


最後の公方様を見送るために、東京中の火消は

半纏などを新調し、木やりを歌い見送ったという。

軍事的には上回り、まるで、徳川が豊臣から天下を

奪い取った時と同じであり、豊臣は、関ヶ原で万全の

陣地配備をしながら半分以下の部隊だけ戦い、

挙句の果てに、裏切りによって勝敗が決する。


まるで、それを裏返ししたかのように、

鳥羽伏見の戦いでは外様でありながら譜代の扱いを

受けた藤堂家が裏切り大砲を撃ち掛けるのである。

まるで、300年前に戻っての事であったのです。

歴史は繰り返す」そのままでした。