池田屋

前年の祇園際は行われたが、何分、新選組が池田屋に

斬り込んだ翌々日だったので、相当殺気立った雰囲気で

行われた。


池田屋事件についての町人の日記では

「昨夜より三条河原町辺より二条までの間にて大混雑。

浮浪の者を襲い4,5人斗切殺し、

寄せ手も3,4人打死に」とある。

翌日、山鉾巡行の見物もそうだが、事件の現場に

行ったら、三条小橋から寺町にかけて

血が沢山こぼれており

門倉屋敷の脇では浪士が2人切腹していた。


これは、死体を放置することによって恥を晒させるという

江戸時代の考え方で、死んでからの罰則を与えるのです。

心中もそうでしたね、見世物にするのです。

大坂での心中事件の時は、女の陰毛が凄いと

評判になって大勢の人が見に来たといいます。

心中現場

この頃の人は死体を見慣れてるというか、

平気なんですね。

刑場で磔がある時なども、弁当持参で或いは、

売店なども出て見物が多く居たといいますから

普通の事になってるのです。

天神船渡御

家茂上洛の為、その大軍で大坂は、

あまりの数の多さに第一、将兵の泊る所すら

足りないのです

丁度この頃は、長州が時間稼ぎに出てる頃で、

出来るだけ戦争の準備をする為に引き延ばしを図った。

勝海舟が長州との窓口になっていた頃ですね。

結局開戦となって幕軍が多方面から攻めてきて、

長州でいう「四境戦争」です。

この頃の年号は、慶応です。


余談ですが、或る人に、明治の前の年号はと聞かれ

慶応と答え、更に、その前はと聞かれた其の人は

答えに詰まって、早稲田と答えたという笑い話が

有ります。

この頃は、年号がコロコロ変わるので厄介です。




長州再征の幕軍

幕府は一方では、戦の時の軍の配置をしなければ

ならない。

その為、一部の軍が国境に配置され、大坂の将兵の

数が少し減ったので、宿の配置換えをしようとした。

対象は将軍のお供である。

身分は旗本で布衣以上、

スペースは、布衣以上で身分に関係なく

1人当たり畳2畳。




布衣以上というと大身旗本で、守名乗りをして、

江戸で大きな屋敷に住んでいるのです。

それが、一律畳2畳があてがわれ、しかも、その後、

畳2畳ではなく1畳になってしまった。


でも、牢屋ですと畳1畳で4人ですから、

まだ恵まれてはいる。


緊急避難として、急遽大阪城の馬場に小屋が作られ

そこに収容されるようになった


しかし、この幕軍の士気というのは酷いものでして、

旗本が陣中見舞いに行った羅、さぞ、士気が上がって、

一番首とかの話しでも出るのかと思いきや、

話題は土産に持ち帰る女房娘への櫛や化粧品、

口紅ばかりで、これでは駄目だろうと思ってたら、

案の定、鳥羽伏見で負けたという。

鳥羽伏見の戦い


ちなみに長州戦争で消費した金額は437万両でした。

しかも、その7割が人件費で、大坂在中の旗本御家人

に対して払う金が一日に18万両であったという。

幕府は開戦前に、軍資金の7割300万両を

使ってしまったのです。

如何に戦が金を食うものであるかが判ります。



物価はというと、青物の値上りが甚だしく、

西瓜も一切れ48文だったのが200文にまでな

ったという。

そして、6月の祭は中止、天神の船渡御も同様で

淋しいものとなったという。

米騒動 打ちこわし


大軍が長期に大阪に滞在する事により、

最も恐れていた事態が発生するのです。

米の値上がりでした。

江戸の場合ですと、米1升が100文が普通の相場ですが

大坂では、将軍が来る前は米1升は260文くらいだった。


それが、段々と値上がり始め1年後には

倍の850文にまで至った

幕府は、度々禁令を出して米相場の吊りあげることを

禁じたが御触れではどうにもならず高騰した。

堂島の米商い


米騒動は、西宮から始まった。

発端は、女房達14,5人が米屋を廻って

安く売ってくれるように頼んだ物だったが、

最初の売値の要求は、遠慮気味に

400文くらいであったらしい。


米屋としては売れば大赤字だし、噂を聞いて

もっと多くの人が買いに来るから、

余計売る事は出来無い。

然し日を追うごとに米屋を廻って米を求める人が

多くなった

次第に応対は刺々しくなり、店側で刀を抜くような事も

あったらしい。


そして、最初の打ち毀しは,大坂ではなく神戸から

火の手は上がった

暴動に参加した人数が不定で約15,000とも

云われた

当然ながら米を安く売らない米屋から襲われ

毀された米屋は35軒、死人も12,3人出たという。


次第に場所も移って行き、大坂へ近づいて行った

大坂町奉行所も心得違いの無いようにとの

御触れを出したが、情勢はそんなものでは収拾が付かない

状態で、大阪近辺・大坂三郷では不穏になり、九条村では

茨住吉社に集結し竹槍で武装し、米問屋に1升400文で

9月まで売れと要求した。


富裕階層では、万一を恐れ女子供などを避難させる

騒ぎであった

そして、本格的な打ちこわしが始まった。

大坂の始まりは、難波だった。


難波は大坂の繁華街であり、ここから起きたことが

印象的とあったらしく「難波より起り」と表現が多い。

難波宮

難波宮といえば、仁徳天皇がここから下を見下ろして

「高き屋に登りてみれば煙立つ

   民のかまどは賑わいけり

という御製がある。


これをひっかけて、将軍家茂が名月を鑑賞し歌を詠んだ。

高き屋に登りてみれば煙立つ

ここで止まってしまい、側近が下の句をどうぞというと

家茂は「予は下の句は知らぬ」と答えたという。

勿論、これは、米が値上がりして困った民が

作った話である。

米屋


最初の米の売り渡し要求は、1升400文くらいが

次第にエスカレートし1升200文を要求し、

応じない店などは直ちに壊したという。


ただ、壊したのは米屋だけで、他の店は、

被害はないので外出して寺に法話を聞きに

行ったなどという人もいるので

町がパニックになったという状態ではなかったようだ


結局、終わってみると、被害を受けた町数は366、

店の数が885軒。

無理やり買った米の代金の合計が6518貫561文、

金にして41両3分2朱。

銭で換算すと7100貫文、米が1升200文なら

350石買える。

そして、実際に米の在庫量を調べると、

置いてあった金額の数倍もの米の行方が不明、

要するに持ち去られたのである。

大坂東町奉行所


町奉行所も鎮圧には動けなかったが、

逮捕したのが200人ほど。

取り調べに対しての答えが、冒頭にあった犯人は

「発頭人は城中」(将軍の事)という

歴史に残る名言?が出たのである。