旅人が歩いた所、名所といわれる地は奈良、京都、
日光でも 全く同じコースを歩いている
これは、案内人が付いて勝手に見物する事は出来ず
また、1日延びるとそれだけ金が掛かる事から、
いわゆる案内に従って日程内での観光を
楽しんだからと思われる。
大仏殿
では、旅での危険はなかったというと、
無いというのはあり得ない。
宅子の日記でも、怪しい男につけ回され逃げて
難を逃れた例がありました。
健さんは、先祖の危難を助けに来なかったですね。
山伏の野田泉光院は、6年間も化政年間に全国を
旅し日記に細大漏らさず出来事を記している。
しかし、事件らしきものは書いてない。
書いてるのは、泊めて貰った農家が隣家の火事で
類焼しそうに成ったので、食べていた夕食を慌てて
裏の畑の持って行き
それから家財道具の持ち出しを手伝って事くらいで
何も書いてないのです。
勿論、男の旅と女性の旅とでは一概には言えませんが、
伊勢参りでも子供が抜けだして一人で旅をするケースも
多くあり、実際に、勝海舟の父の勝小吉は14歳で家出して
放浪していました。
崖から落ちて怪我したりとか、胡麻の蠅に騙されて、
有り金を取られて無銭旅行になったりとあるが、
兎も角、旅を終了しています。
豪商の妻・清野もこれを利用したようです。
江戸に着て初日に馬喰町の旅籠に泊ったのです。
これには書いてる私が驚きました
というのは馬喰町は、隣の横山町に問屋が多い関係で
商人が多いために商人宿が多く、安く上がるので
商人の長期滞在に適していて、風呂も湯屋に行き、
食事も大台所でみんなと一緒というところでした。
馬喰町の旅籠
そこに何故、金持ちの清野がと思いましたら、
実は、上記の道中記はこの町が出発点であり
集合地であったからで
その為、清野は2日目には宿を変えてしまいました。
さて、このガイドブックは、1日に20キロは歩く
ハードなコース設定ですが、馬喰町を起点に
東西南北に名所を網羅し
しかも道順まで書いてあったのですから、
江戸が初めての人だったら有り難い事であったでしょう。
鳥取藩池田家上屋敷
南コース
大名屋敷や登城の様子江戸でないとみられないので
人気があった
呉服橋を渡って見付内に入り、大名小路、
西の丸を見物し、桜田門から黒田家などの大名屋敷を
見て、山王神社、虎の門、
京極家に在った水天宮の金比羅宮を拝見。
更に、愛宕山に上り増上寺へ、目黒不動に行き、
芝神明宮、本願寺、そして馬喰町に戻る。
西コース
見晴らしのいい湯島天神、九段坂
そして、蓮の名所である不忍池
常盤橋門から大名小路、大手門、九段坂に出、
絶景の景色を見る。
湯島の聖堂に出て、護国寺に行き神田明神、
妻恋稲荷、湯島天神、更に、上野山に行き寛永寺、
不忍池、根津権現、道灌山、
そして馬喰町に戻るに、人手の多い繁華街である
上野の山下に出て戻る。
北コース
最大の名所の浅草、吉原で昼見世を見物、渡し船で向島
浅草御門を出て、浅草寺、吉原へ。真崎稲荷、こ
の周辺は桜の名所、
そして有名な料理屋が並んでいて、桜と料理が楽しめる。
更に、木母寺、白髭神社、梅屋敷、秋葉神社、牛御前社、
三廻神社そして戻ってくる。
東コース
両国へ行きます。軽業などを見て、回向院、深川八幡、
三十三間堂、洲崎弁天、羅漢堂、亀戸天神をみて
帰ってくるのです。
ただ江戸見物というのは、あくまでも従的なもので
伊勢参りや富士詣などの目的地に至るまで
主な寺社や名所旧跡を回るというもので、こ
れは徒歩だから可能だったとも云える。
西の国の人達は、江戸というのは、格下の地であり、
しかも、寺社も本山は大体西にあるところからであり
珍しくも無かったからでしょう。
では、西の人達は何処に行くのかというと、
善光寺である。
ここを目指して、帰りに日光東照宮というコースが
目立つ。
そして江戸を見物するのは、圧倒的に東の国が多い、
ちなみに今の埼玉の所沢の旅人の行程。
嘉永5年(1852)に武州所沢(埼玉県所沢市)の
一行13人がやはり奈良、京阪を見ている
その時のコースと値段。
奈良では1組80文で猿沢の池、2月堂、春日大明神、
三笠山、元興寺を1日で。
さらに法花寺、西大寺、菅原明神、法隆寺、竜田明神、
達磨寺、当麻寺を見て、
明日香へ、飛鳥寺、立花寺、岡寺、多武峰、
そして吉野へ。
ここで義経と弁慶の宝物を一人6文で開帳。
次いで大坂。
一組200文。
高津の宮、妙法寺の蘇鉄、大阪城、天満橋、
本願寺を半日で、馬喰町にある
武蔵野という茶屋で昼食、二の膳付で66文。
大阪名代の所であったという。
彼等は見てないが、道頓堀の芝居見物が
この後多いという。
京都では一組200文。
真如堂、知恩院、祇園牛頭天王社、清水寺、
二条城、北野天満宮である。
そして、京から出て、三井寺、石山寺を参拝。
特に石山寺は紫式部が源氏物語やその時
使った墨や硯有り、
又、観音信仰の元で有るために人気があったという。
江戸では、11人で300文だった。
嘉永3年(1850)
神田明神、妻恋稲荷、湯島天神、不忍辨天、東叡山、
東本願寺、浅草、柳島妙見社、梅屋敷、亀戸天神、
回向院、両国橋のコースだった。
では清野はどういう行程であったでしょう
「10日には御屋敷に参り候えば、
御元締めの役所に参り候えば、
船山様など御出でにて、品々の御馳走になり候上、
りよ助様・大滝様
とやら御先達にて丸の内を見廻り、
それより讃岐様の御家門とやら
御家来とやらの御屋敷、6万石の御屋敷の内に、
金比羅様の御堂あり。
常には参詣ならず、10日にて御免を得、
参詣群衆なし、誠に夥しく、四国の金比羅様の
御移し似て、諸人群集なし、食い物売り・茶屋・鉢植え・
それぞれの花売り夥しく、よき見物なり。
それより愛宕様へ参詣し、諸所を見巡り、帰り候」
鶴岡藩主・酒井左右衛門尉の上屋敷へ
挨拶へ行った。
江戸城の大手門へ行き、大名行列を見る。
武鑑片手に見ていたのでしょう。
自分の国の殿様の行列を見るのも、国へ帰っての
楽しい土産話になります。
そして、讃岐の京極家の藩邸の金比羅宮へ行く。
庭内には国許から勧請した宮が有り、
霊験あらたかという評判であり
毎月10日の縁日には人が群れをなし、
出店も多く出ていたという。
四国の大名は金比羅を祀っている所が多かったが、
とりわけ京極家のが有名であった。
それから愛宕山・愛宕神社に行く。
ここは頗る眺望がよく、
江戸の3分の1が見回せたという。
遥かに上総や房州まで霞の彼方に見え、
南は品川沖、北は御城、
多くの人が訪れ、山門の両側には水茶屋が並び
菜飯などを売っていた。
翌日は小石川へ行き、伝通院へ行き見学。
ここは48年後に甥の清川八郎が暗殺され、こ
こに墓を設けたところです
翌12日はグルメ三昧です。
「両国柳橋の梅川屋長兵衛という船宿に上がり
料理を戴く。
なにやらいずれも旨き事に御座候。
それより吉原に行く。田川屋という浮世風呂と
申す家に行き候。
その綺麗・風雅の模様云うばかりなし。
茶だし、それから湯に入り候えば、浴衣を持ち来たり、
鏡台2つ、鉄漿化粧道具残らず有り。
衣桁に手拭掛けあり、その綺麗云うべきなし。
湯の綺麗さ尚書くべき様なし。」
そして出た料理である。
1菓子 小らくがんのようなもの
1吸物 鯛腹背
1唐物
皿鉢物 蒲鉾、鮑、はな湯の花
1同 すきみ砂糖煮 味噌の物 むき牛蒡 生姜
1皿鉢 いいの煮付 ささげ
1同 鯛の皮 次に蒲鉾 椎茸 竹の子
1吸物 穴子 薄竹 青味
1皿鉢 刺身 茄子 大根おろし 辛子に砂糖味噌
1奈良茶 飯 吸物鯛 香の物(胡瓜・茄子)
1茶 菓子 白羊羹 煎餅
そして、吉原へ行きます
それより吉原へ参り、仲の町の女郎の揚屋入り、
又、見世の様、聞きしに勝りて見事。
吉原の美々しき事、話よりはおそろしく、
其れより、又、舟に乗り、梅風呂に上がりそれより帰る。
江戸の船宿は、非常に多くこの時代であると
全部で600くらいあったのでは無いかと思われる。
その内荷物の輸送をしていたのは1割で、
あとは遊山のものであった。
吉原へ行くのに使ったり、宴会をしたり、
又、男女の逢引にも多く使われた。
しかし、船宿にしてはかなり豪華な料理である。
「いずれも旨き候」と満足している様子が判る。
清野は、田川屋に案内され、
浮世風呂に案内されている。
それを「その綺麗・風雅さ云う事無し」と絶賛している。
料理屋で初めて風呂を付けたのは
深川の平清であるという。
しかし、この頃には他の料理屋でも風呂が有り、
しかも、女性が食事に来て風呂にも入れるように
なっていたようです。
そして豪華な食事を終えて、吉原見物です。
揚屋も立派な造りで、清野も「見事」と感嘆している。
花魁道中も見て、大勢を引き連れて歩く姿に
目を奪われている様子が見える。
江戸の場合は、大体コースも決まってるが、
しかし、清野のように予算が潤沢なというより
金が無くなると国許から送金して貰えくらいの
金持ちです。
だから、江戸屋敷に行くと向うから挨拶に来て
御馳走にもなる
これも普段から藩に献金などを負担しているからです。
ただ、江戸見物も幕末になると様相は一変します、
横浜の異人屋敷に行くのです。
そこで、食事をしたり、或いは土産物を
売っていたので買う
これもまた土産話になるのですから、
新しい名所だった。
当時「江戸名所図会」のような江戸見物の案内書が
出されていました。
旅行パンフのようなものであり、持ち運び出来るものであり
それらも後半出されました。
そして、その中の一つに「江戸見物4日めぐり」がある。
このパンフが馬喰町を起点とした観光案内
のせているのである。
東西南北の4つのコースで、当時の江戸見物の
定番が載っている。
江戸見物にやって来た人を案内する人が居て
「もさ引き」と呼ばれた。
「きよのの旅日記」などでも再三登場しました。
奈良や京大阪、江戸では常時待機していたようで、
ガイドブックなどで紹介されていて、予約していたようです。
料金は、場所によって違いますが、
1人100から150文であったようです。
先ず江戸は、浅草観音、上野東叡山・寛永寺、
亀戸天神、五百羅漢寺、さざい堂、深川八幡、
湯島天神、神田明神
芝増上寺、泉岳寺、三井呉服店、それと吉原遊郭、
吉原は女性の方も殆ど見物に行ってますね。
宅子たちは、浅草御門前から北をさして八丁、
花川戸という所を過ぎ、山谷土手なんぞといふ所を通りて」
と有るので、助六が云う
「通い慣れたる土手八丁」徒歩で向かったのでしょう。
吉原日本堤 広重
花魁行列も見た。
「おいらんとかいひて大傘さしかけさせて
両わきにかむろ其の外、あまたの供をつれたるが
茶屋茶屋にあゆみいるさまいとうつくしき」
「見るだにも心うかる面影を
たが河竹のしずむといふや」
瀧川 花扇
花魁行列の素晴らしさ。
大傘をさしかけさせ、両脇に新造・禿を従え、
外八文字に歩く。
緋縮緬の二布を翻し、白い足首や時には太腿辺りまで
拝めた時は有頂天に舞い上がるのである。
花魁は全て素足で、禿は足袋を履く。
「吉原の 足袋屋禿が 得意なり」
宅子は、見ているだけでも楽しい気分にさせてくれる。
こんな美しい花魁を、世の人は「河竹の流れの見」
といって、浮沈定めない遊女を蔑むが、
人々をこんなに気分を浮き立たせてくれる。
花魁道中を見てその美しさと華やかさに目を
見張るのである。











