長屋の話です
子供は寺小屋に行き、カミさんは、後片付けです。

江戸時代は、自分の使った茶碗などは、使用後、

湯を入れて漱いで綺麗にし膳に入れます。

これは、水は大変貴重であり、買っていた事から

勿体ないと思うからでした。


朝ご飯は、1日に食べる量を炊きます。

炊き立てのご飯を、(御)という字を付けて御飯といい

それに、2種以上の具をつけたのを「御御御汁]

(おみおつけ)と呼んだ。

他に沢庵や納豆や豆腐など。


昼は、冷飯に魚と煮付け、煮豆や佃煮などの惣菜

沢庵や煮豆や佃煮などは塩分が強く、飯を

かっ込むための強力な味方です。


何しろ1日5合です。

毎回同じことを思うのですが、でも、毎食1合半食べる

想像するだけで気が遠くなります。

1合は食べられるけど、1合半は無理だな。


夜は、江戸は火事を最も火事を警戒したので

火の使用は厳禁、大体、茶漬けや湯漬けが殆どだった。


箱膳といわれる1人専用の物を使用した。

一番上の物をひっくり返すと蓋になる。

食器などは、中に入れて置いたのです。

食器のすすぎ方は、参禅会に行かれた方は

経験したと思います。

同じように湯を入れて綺麗にした事と思います。

ですから、同じなのです。

生きんがために食べるのです。

食前感謝の言葉が有りましたね。


お粥と沢庵と梅干し、量が少なくて腹が減りました。

でも、偶には瞑想(迷走?)するのも好いのかも。

只管打座!




皆出かけると、洗いものを持って

洗濯のついでにカミさんは、楽しい井戸端会議をします。

井戸端へ 人の噂を汲みに行き

場合によっては、魚を売りに来た行商人に

魚を捌かせて刺身などにして宴会にもなります。


昼から酒を呑ませられないようでは、

亭主の沽券に拘ります。

魚売り 4ツ過ぎまでは えらを見せ

10時位までは、活きが好いよといい

鰓を見せます。




子供は寺小屋、江戸では手習い所ですが行きます。

裏店で生活が苦しくとも、読み書き・算盤だけでもと

願う親たちは子供を行かせようとするし、中には、

裏店に住む浪人が1日4文で教えたという例もある。


そうでないと、商家に丁稚奉公させても、出来ない子は

番頭が店が終わった後に反古紙に字を書かせたり、

或いは、砂手習いといって、古い盆に砂を入れて、

指先で字の練習をさせるのです。


でも、砂に字を書くというのは、江戸城で老中たちが

他聞を憚って同じように字を書いて問題を討議しました。

あとで消して済む為に書くのです。


大名の真田家などは、貧のあまり書道具を買うことも

出来ず、書を書くことが好きな殿様は、指で宙に字を

書き、それを出入の商人が見て、あまりの事に

紙や墨などを寄進したという話もあります。


薩摩の殿様、77万石ですが金1分の金が屋敷中

探して無かったくらいですから、大名の貧の物語で

珍しいものではありませんでした。


地域によって教科書の内容が違います

赤坂、牛込、四谷などは武士が圧倒的に多く住む

地域です、

ここで開かれる手習い所は、「唐詩選」や「千字文」など

武士の教養を高めるものを使ってました。

 千字文


何が書いてあるか判りません。

そして、庶民が通う手習い所では、比較的使用頻度の多い

くずし字である草書を習い、クラスが上がるにつれて行書

楷書を学びましたが少数であったようで、、その為

庶民は、崩し字を読み書きは出来たが、楷書は出来なかった

現代とは、まるで正反対の光景です。


ただ、楷書というのは公文書は楷書ですから武士の子に

とっては必須のものでした。

御家流ですね。

大奥では、お家流を嫌って京から手本を取り寄せて

いたとませ子は述べてます。



大体、6,7歳くらいで近くの寺子屋に行き入門した。

一般的には、初午、旧暦の2月の最初の午の日に

入門するのが普通でした。

初午には、子供は太鼓をたたき練り歩きます




初午になると、伏見の稲荷社をはじめとして、

全国の稲荷社が新しい鳥居と「正一位稲荷大明神」の

幟を立てて祭を行った。


宵宮から大変な賑わいで、どの家でも御馳走、萩の餅、

団子、五目ずし、精進揚げなどを作り、

隣近所などに配った。

子供たちは稲荷社の前で太鼓を叩いたりして騒ぎ、

幟を担いで家々を回り、

稲荷講、万年講、お十二燈お上げ、お上げ」と唱える。

家もそれに対しておひねりを上げ、直会(なおらい)とした。

あしたから 手習いだと 叩いてる

メタボンのブログ

寺子屋に入るにはまず入学金(束脩)が要ります。


これは、近所の人に相場を聞き200とか300文

払った。

余裕が有れば1朱、大店なら金1両。


そして、授業料に当る謝儀、これは年5回払う。

1回あたり金1朱である。

勿論払えない人もいるが、そういう人は扇子や菓子折り

を納めた。

 宜しくお願いします


他には、年に1回、畳料とか炭料として些少を納めた。

又、節句や盆暮れにも気持ちで納めたという。


学用品も必要です。

安政年間ですと、天神机と硯箱が250文

筆は1本4文、墨1個が12文、半紙1帖が8文。

合計で674文が必要であった。


そして、先輩方に挨拶として配る煎餅代も必要だった。

これも江戸中期になると駄菓子が登場したので、

安く買う事が出来た。

それ以前は、無かったので大変であったでしょう


子供を寺子屋に通わせると、親は今の金で

年間3万円くらい必要であった。

尤も、金のない家も多かったので、農家だと大根や

鶏卵10個などもあり、中には文具を分けて

くれるところや、或いは、請求もしない所も

あったようです。

 寺小屋からの帰り


授業は、実学と云い、生活に役立つものを

教えました。

主に教えたのは、手紙の書き方と礼儀作法ですが

自分で詠みたい本がある時は、それを持って来て

師匠に教えて貰った。


入門すると先ず「いろは四十七文字と数字を書いた

師匠の手本を渡されます。

誰ですか、「いろ」だけで「は」を忘れた人は?


ただ、教えるのは師匠だけではなく、よく出来る子が代わりに

教え、手に余る場合は師匠が乗り出した。


特筆すべきは、「謝り役」というのがいて、叱られる役を

他の友が叱りを受けた事で、これは自分が叱られるより

効き目があったという。


毎朝午前五時から午後二時まで手習いの独習です。

別に時間が決まってる訳でもないので遅刻しても

怒られません。




そして、面白いのは絵を見ると子供は勝手に向きを

変えて坐っているのです。

前を向いてという事はない。

それぞれが勉強していて、師匠は生徒の所に行き

教えているのです。

それも反対側に坐って、字を反対に書いてです。


これは素晴らしいですね。

あくまでも個性を尊重している。




授業内容は、読み書きが中心だが、女子には裁縫も

教えます。

それと礼法ですね。

ですから大名屋敷で奥女中奉公した女性の寺子屋は

人気が有って女子生徒が良く集まったそうです。

特に11代家斉の代は奥勤めは町娘の夢でした。

その為に毎日朝から稽古事を,親から強要され

遊ぶ暇もないのよ、と泣き言をいうようになります。

 学習院の礼法教室

お昼ご飯は原則として家に帰りますが、中には、

弁当持参の子もいます。

それは、子供が師匠のところで一緒に食事を楽しむ時と

或いは、天気が悪く往復するのが困難な時は

弁当持参です。


弁当は子供が好きだったらしく、「浮世風呂」にあるように、

子供が「おとっつぁんがね、あのう、今日はご褒美に

お弁当にしておやりよ」と、父を盾にして催促する様子が

有るくらいである。




幕末には江戸だけで1500くらいの

手習い所が有ったという。

やはり読み書きが出来ないという駄目という

親の思いがあったのでしょう。

ただ、今のように上級の学校に進むことではなく、

あくまでも、読み書き、又は算盤を覚える事でした。


最初に、平仮名で書いた「いろは」を渡して

読み方を教え、次に、半紙で筆写させるのである。

紙を節約するために、同じ紙の上に何度も書かせる

従って紙は真っ黒になる。

そこで5日おき位に新しい紙を与えて書かせる。

 女子のみ


江戸には、女の先生も多く3割は

そうであったらしい。

やはり、女の生徒には女の先生で、男には男である。

特に、大名屋敷の奥奉公をした女の先生は礼式にも

詳しいので行儀作法を教えられたので

人気があったという。






教科書は、7000以上の種類があったという。

ですから自由に作り使用したのでしょう。

基本的には、手紙文の「庭訓往来」、

商業用の「商売往来」農業の「百姓往来」、算術の「塵劫記」

漢字の初歩の「三字経」童子経」などは何処でも

使用していた。


特殊なものでは、大工用の「番匠往来」で大工の用語を

書いたものだった。


休日は、毎月1・15・25日がそうであった。

正月休みは長く、1か月休んだ。

他に、祭日が有り、2月の初午、3,5,7月の節句、

お盆、鎮守の祭それぞれ3日位休む。


道真の命日が1月25日、この日を記念して

色々な催事も行われた。

寺子屋でも天神祭と云い、この日は休日で、

桜の季節ですと桜見物に行く寺子屋も多かった。

花の山 散るな散るなと 師匠下知

教え子を大勢引き連れての花見、

迷子にならぬように喚いている情景。

飛鳥山花見
メタボンのブログ


その他の行事としては、正月の書き初め、

4,8月の席書(一同の習字の会)、7

月7日の七夕の硯洗い

夏の土用に行われる未明の朝稽古、

或いは、14歳以上の子が行う夜10時からの

寒稽古でした。

 席書

良く書けた子にはご褒美を上げます。

亭主は弁当をもって仕事に行くが、

手習いの子供は昼を食べに戻ってくる。

「昼飯を 外から怒鳴る 手習い子


「浮世風呂」文化9年(1812)に正月の或る日の

昼飯がある。

「重詰めの数の子と座禅豆で茶漬けを

さらさらと3杯」

「汁に銀杏大根に焼き豆腐の賽の目、

お平はお定まりの芋、人参、牛蒡大根、田作」とか

「塩引きの焼いたので、又、6杯」

正月ならではのもので、そうでなければ、

上記の品の1品くらいであったろう。