先の話で分かるように、諸太夫は「しょだいぶ」と

呼ばれてた。


武官と文官。

どちらが昇進が早いかというと、文句なく文官奥向きの

コースで何か失敗をしない限りは、諸太夫までは

文句なく行けたという証言がある。

これは、やはり、将軍の身近に勤めるので、

心証が良ければ必然的に昇進が早かったのです。


もう戦など無いのですから、武官の役割は暫く無かった。

それが急に復活したのは、黒船来航であり、

しかし、この頃には、馬にも乗れず、刀も抜いた事のない

旗本ばかりでしたから、それは戦力になりません。

 家茂上洛


幕末、長州征伐として旗本による新たな将軍親衛隊が

組織され、その名も「奥詰銃隊」とされ、亰へ進発する

事になりました。

幕府の関係者がその隊を訪れました。

さぞかし、出陣となれば君の御馬前にて功名手柄せんと

多分そういう話でもちきりであろう思っていましたら、

案に相違し、亰へ行ったら、土産は、口紅は紅にしようか、

扇子が良いか、或いは羅紗、針がという話ばかりで。

これではと思ってたら案の定鳥羽伏見で惨敗でした。

  鳥羽伏見の戦い

何百石取りの旗本でこの有様では、到底勝てそうもないと

思ったそうで、馬にはのれないではと、

もう戦う武士の集団ではなかったのです。


上野の山の戦いでもそうで、或る方が突撃しようと

そこに50人くらい旗本が居たので、突撃するぞ!

と云ったら返事をしたので、突撃して後ろを見ると

誰もいなかったので、もう、これは勝てないと

感じたと述べてます。

 フランス式調練

強かったのは、精鋭と云われた庶民から募集し、

フランス式調練を受けた歩兵であったそうです。

武器は最新鋭で戦には強いが、規律はなってなったという。

柄は悪くて、上野の山の戦いで旗本が参集してた時

有能で知られ各地を転戦し抵抗した旗本が

到着したのを見て、「あいつが来れば大丈夫だ」と、

などといったそうですから、軍規などといったものは

無かったのでしょう

このフランス式は維新後になっても、駿河藩が一番

優れていて各藩から沼津の兵学校に学ぶに来た。


旗本のエリートである両番組の小姓や書院番は、

勿論、このコースを通り抜けないと町奉行などに

勿論辿り着けませんが、中には、年を取っても尚

番士を務める旗本も多く居たという。

 旗本登城


しかし、役職の数は3千くらいしかありませんでした。

それに引き換え旗本の数は5千、

単純に見ても2千の旗本は役が無くて、

小普請或いは寄合に入るのが当たり前です。

この少ない役職を巡っての獲得合戦が

繰り広げられたのです。


奥で人気の職の一つに御小納戸があります。

文字通り、将軍の雑用係でした。


将軍の傍に付いて身辺のことをしなければならない

役でした。




以前、川路聖謨の子供が大奥に泊りに行った際、

時の大奥の実力者である姉小路に会うことが出来、

子供を励ます意味で「早く、小納戸に成りなさい」

という激励の声を掛けた。

それだけ小納戸という職は、人目に付く職であった。


中奥勤めや小姓組ですと2千石クラスの旗本でないと

なれませんし、下級旗本でも小納戸ですと

気に入られて抜擢される可能が

有る事も競争が激しい理由であったようです


小納戸について、将軍の身辺に関わる業務だけに

多様な技能と実務の力が求められ、

資格として旗本の嫡男であり

小姓と同じく布衣(6位相当)が認められた。




布衣は、旗本が目指す第一の関門です。

スタートといっても差し支えありません。

まずは、ここに立たたないと昇進の道は開けない。


幕府は、幕臣がこのポストに就任する場合、

それ以下のポストは老中が言い渡したが、

布衣の場合は、将軍の臨席の上で言い渡したという。

それだけ手厚い儀礼であったのです。


尚、布衣の職に就くと、

その年の12月に布衣の位が発令された。

公卿が着た狩衣の着用資格である。


布衣の上の位が、諸太夫で守名乗りが出来、

大紋の着用が認められた。


布衣になると幕府の公式行事も参加できます。

例えば、正月三日の謡初めもそうです。


 江戸城大広間


将軍を始めとして、御三家・御三卿・老中・有力大名が大

広間にて演舞される能を拝見するのです。

能は足利幕府から伝わる公式行事に欠かせないものであり、

徳川幕府もそれに見習って、能を必ず行事の時に催した。


能は公式行事に付き物ですが、御家人から旗本へ

昇進してきた武士は、永世旗本として認められ、

家督相続の時に子息が自動的に御家人ではなく、

旗本で最初からスタートできることを喜び、

次に、布衣となって、こうした能の行事に参加できることが

出世のバロメーターであり、目標でした。

幕末の有能な官僚であった川路聖謨も初めて

臨席できたことを喜んでいた。

 謡初め
メタボンのブログ


或いは、布衣となると、11代家斉が布衣以上を

浜離宮に招いて釣り大会をして慰労した事もありますが

これも全て布衣であり、普段、仕事に優れた能力が

有るとみられた役人が対象でした。

こうしたことの積み重ねが、モチベーションを高め、

同時に、将軍への忠誠心を強くさせ、川路は、将

軍への感謝の思いで感激し、戎帯を強くし、そうした心が

江戸城開城の日、半身不随の身で片手で薄く腹を切り、

ピストルで喉を打ち抜いて殉死の形をしたのかもしれない。

 浜離宮での釣り大会


小納戸に難しい採用試験(入人吟味(いれひとぎんみ)

があった。

最初に一定の資格である家柄・年齢・技能・人柄など

そして、属する職の上司や小普請組の場合は、

その支配の推薦が必要で、それに本人の身上書を

元に側用人・若年寄が面接や実技が行われる。

それは数次にわたって行われ、最後に将軍による

面接(御透見)が行われ合否が決定した。


その他にも身辺調査が行われた。

御庭番は、遠国御用の他に、

江戸廻り御用」というのがあり、

この任務は素行調査である。

小姓や御小納戸に起用する予定の者の調査である。

小姓や御小納戸は将軍の身の周りであるから、

下手なものを起用できないのである。

もう一つ重要な素行調査は、将軍の手が付きそうな

中臈の素行調査である。

これも時代が下がるとともにいかがわしい者が入

っていたからである。


(御透見)というと、将軍の夜のお相手を決める

御庭拝見と同じですね。

御中臈が振袖を着飾って庭を歩き、将軍が障子等の陰で

見て決める方式です。

その時は、あの子などというはしたない事はしません。

何となく側近に分るように仄めかすのです。


有名なのでは、本寿院です。

13代家定の生母で、旗本跡部家の娘で、

偶々お城の姉の所に遊びに居ていて

員数合わせに面接に駆り出され、それを御簾の陰で

見ていた12代家慶に気に入られ寵妾となったのです。

「超玉の輿」でした。

 細川家小石川下屋敷


これは、大名の細川家でも、御庭での園遊会などと云って

実は、(御透見」であり、殿様は、御女中から見繕って

選んでいたとの証言がある。

将軍も大名も同じなのです。


もう1つ御庭番の仕事である

江戸向かい地廻り御用」について。

これは、幅広く御三卿を含め、旗本・役人の不正を

探る意味で行われたようである。

一番、大々的に行われたのは「江戸打ち毀し」で

あったようである。



大奥に行くと帰れなくなるので、小納戸の採用試験に

戻ります。

倍率は高く10倍から10数倍になる事も珍しくなく

寛延元年(1748)は、14,5歳から25歳までの

旗本280名が応募した。

結果は5名だけ合格という60倍の倍率でした。


しかも、280人になるまでに足切りが

行われているので

単純な受験者というと千名近いという。

如何に、羨望の職務であったかが、

これだけでも判ります。


或る記録によると、小納戸吟味を7回受験し、

結局採用されたのは47歳の時であったという。

恐らく、この年齢は官年であったろうけど、

それにしても恐ろしい受験地獄であったのです。


但し、何時の世でも依怙贔屓は有りました。

「多くは大奥推挙の仁御撰に入る」

大奥や奥勤めの関係者からの推薦が強く働き、

それが合否の決め手となり、将軍の遠くからの

面接も、顔見知りやその子弟に有利に

働いたという。


これは、御台所付中臈の大岡ませ子も将軍に

声を掛けられ

「あの忠左衛門の子かなどといった場面もありました。

従って、知っている人が有利になったのは

間違いない事でしょう。


小姓と小納戸は共に将軍の傍に仕え、

共に役高500石、隔日勤務で

将軍の雑事を務め不寝番も務めたが、

格式は小姓が格上で諸太夫で、

小納戸は布衣の役人である。

天明6年(1786)の記録では、小姓は19人、

小納戸は66人。

共に4,5人の頭取が統率している。


この前のブログで旗本夫人を紹介していますが、

その時、孫が世子の御小納戸を勤めていて、

そこでも様々な拝領物が多く有りました。


しかし、小姓頭取が権限が無いに対し、

小納戸頭取は役高1500石で、

諸太夫で奥向きの会計も管理し、

奥の取締をし表役人とも交渉するなど

大いなる権限を持っていた。


小姓組は、格でいうと小納戸よりは格上だが、

頭取となると小納戸が上になるのである。


家斉将軍が15歳の頃、田沼時代で弛んだ

将軍側近の士風を糺す為に

御庭番に小姓や小納戸を調査させている


小納戸頭取は、4名くらいで表と奥との間に介在

政務以外にも広く百般の庶務に亘り管掌し

権勢があったという。


8代吉宗の頃、3回に亘って表役人に対し小納戸

らが威張り過ぎるとお叱りが有り通達が出された

しかし、時代が過ぎても直らなかったらしく

70年後の寛政年間にも顰蹙をかっている。


城中では、坊主が作法指南や連絡を司り

役得があったと伝えられている。


作家・幸田露伴の先祖も江戸城に務めた坊主で

家禄は40俵3人扶持だったが、担当している大名

からの付け届けは盆暮れ合せて100両あったという。


100両といえば、300石の武士と同じ年収で、

しかも、格式は問われませんから裕福だったでしょう。

 200石級旗本登城風景


他にも徒目付は、幾ら正直に勤めても、年間200両

くらいは入るという。

川船を管理する川船役は年300両とか、

坊主以外にも何かおいしい役目があったという


表向きの家禄だけ見ると、よく薄給で生活できたと

思いがちだが、色々な所に役得があったようです。