これは身分によっても現れて上層の身分の武士ほど

子が多く、愛媛の宇和島藩10万石では、数百石以上

の武士の家は子を5人以上だが、50石以下の身分の

家は3人台後半であった。

「貧乏人の子沢山」は嘘なのである。


貧乏というと、神様の中でも最大最強にして不滅の

「貧乏神」がいます。

多分、消えて無くなる事は永遠に無いでしょう。

貧乏神を祀った神社もあります。

 太田神社


「稼ぎに追いつく貧乏無し」と云われるが、これも嘘で

身を粉にして働いたからといっても、容易に金持ちに

成る訳ではない。

むしろ「稼ぎに追いつく貧乏神」と云って、働けど働けど

楽にならず、じっとわが手を見るというのが普通である。

啄木の心境です。 


自分の心境でもあります。

反省!

 煤払い


年末になると大体大掃除をやる家が多い。

日本では「煤払い」、中国では「送窮」。

これは、家の掃除を怠けて埃だけにしておくと、

貧乏神が住みつくところから、それを追い払うために

家を大掃除を行い、新年を迎える。


つまり、貧乏神を掃討する、一大作戦なのです。

貧乏神にすれば迷惑この上ない事です。


江戸時代にこの貧乏神に出会った武士が居る

文政8年(1821)旗本の家来のこの武士は、

或る時、今の埼玉の越谷に向かう時に出会った。

 越谷宿


その様子を、「白の菅笠に鼠色の衣を着た僧侶である。

顔は、色蒼黒く、目深く、顔尖りて、いと痩せて、

齢は40あまり、頭陀袋を下げていた


この貧乏神が言いました

「我は貧乏神である」

3代前からお前の屋敷にいるが、1両日中に近くの

旗本屋敷に引っ越す。

だから、お前の家はもう貧乏でなくなる。

そういってすっと消えたという。

滝沢馬琴の随筆に書かれている。


ちなみに幼児の遊戯に

「♪結んで、開いて、手を打って・・。」

という歌があるが、江戸時代の「小児必用養育草」にも

記されている。

「稚児に拍手(かしわで)振頭を教える法」として、

子供に「歩み、歩みといひて歩行することを教え」、

次に、幼児手を動かす時に至れば

乳母の類、先ず教えるに拍手ということをなさしめるなり」

理由は、小児には、まず拍手を教えることは、

礼を教えるに古き遺法なり」として、

古きは「魏志倭人伝」にも、「敬する所を見れば、

ただ手を打つ」とあるので

弥生時代からもう拍手をしていたのでしょう。




江戸時代は、子供は年頃になると寺子屋に入り、

字を覚え、御家流の字を書きます。

そうでないと公式文書を書けません。

役所に提出するには必須のものでした。

商人を目指すのは算盤などを覚えて奉公しました。




算盤は、武士の世界でも同様に重要なもので、

幕府の御勘定所の入所試験でも必須科目でしたし、

「武士の家計簿」で登場した猪山家は加賀藩の

算用方が職場であったので、算盤は必須要綱で、

子供の頃から猪山家は子供を特訓しました。


或る時は、子供が答えを間違えると、

算盤で頭を殴り,

算盤玉が台所まで飛び散るといった体罰?を

与えてスパルタ教育をしてました。


お蔭で子供は算盤を活かして維新後も海軍で

身を立てることが出来たくらいです。


 1朱銀(16分の1両)


寺子屋に入るにはまず入学金(束脩)が要ります。

そして、授業料に当る謝儀、これは年5回払う。

1回あたり金1朱である。

その他に盆暮れなど謝礼もあるので、子供を寺子屋に

通わせると、親は今の金で年間3万円くらい

必要であった。

尤も、金のない家も多かったので、農家だと大根や

鶏卵10個などもあり、中には文具を分けて

くれるところや、或いは、請求もしない所もあったようです。


ちなみに現代、小学生の子供が居る家では、

年に7万円くらいが家庭教師や塾の費用であるという

いずれにしても教育費というのは古今を問わず

掛かるものらしい。


江戸には、女の先生も多く3割はそうであったらしい。

やはり、女の生徒には女の先生で、男には男である。

特に、大名屋敷の奥奉公をした女の先生は礼式にも

詳しいので行儀作法を教えられたので人気があったという。




そして、人気のある寺子屋は商家の信用を得ると

そこには推薦で入店するなど、寺子屋の人気は

生活の資を得ると同時に繁栄にも繋がるものでした。

従って、有能な先生は引っ張りだこであったようです


今とは違い、師弟の結びつきは強く、

御礼参りなどないです。

弟子たちは成人すると感謝の意を込めて「筆塚」を

建立し、今も多くの塚が残ってます。