![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150428/17/1480sn/d7/46/j/t02200261_0800094913289788622.jpg?caw=800)
これは身分によっても現れて上層の身分の武士ほど
子が多く、愛媛の宇和島藩10万石では、数百石以上
の武士の家は子を5人以上だが、50石以下の身分の
家は3人台後半であった。
「貧乏人の子沢山」は嘘なのである。
貧乏というと、神様の中でも最大最強にして不滅の
「貧乏神」がいます。
多分、消えて無くなる事は永遠に無いでしょう。
貧乏神を祀った神社もあります。
太田神社
「稼ぎに追いつく貧乏無し」と云われるが、これも嘘で
身を粉にして働いたからといっても、容易に金持ちに
成る訳ではない。
むしろ「稼ぎに追いつく貧乏神」と云って、働けど働けど
楽にならず、じっとわが手を見るというのが普通である。
啄木の心境です。
自分の心境でもあります。
反省!
煤払い![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150430/16/1480sn/8f/3d/j/t02200158_0800057313291810866.jpg?caw=800)
年末になると大体大掃除をやる家が多い。
日本では「煤払い」、中国では「送窮」。
これは、家の掃除を怠けて埃だけにしておくと、
貧乏神が住みつくところから、それを追い払うために
家を大掃除を行い、新年を迎える。
つまり、貧乏神を掃討する、一大作戦なのです。
貧乏神にすれば迷惑この上ない事です。
江戸時代にこの貧乏神に出会った武士が居る
文政8年(1821)旗本の家来のこの武士は、
或る時、今の埼玉の越谷に向かう時に出会った。
越谷宿![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150501/07/1480sn/16/eb/j/t02200183_0800066513292470237.jpg?caw=800)
その様子を、「白の菅笠に鼠色の衣を着た僧侶である。
顔は、色蒼黒く、目深く、顔尖りて、いと痩せて、
齢は40あまり、頭陀袋を下げていた
この貧乏神が言いました
「我は貧乏神である」
3代前からお前の屋敷にいるが、1両日中に近くの
旗本屋敷に引っ越す。
だから、お前の家はもう貧乏でなくなる。
そういってすっと消えたという。
滝沢馬琴の随筆に書かれている。
ちなみに幼児の遊戯に
「♪結んで、開いて、手を打って・・。」
という歌があるが、江戸時代の「小児必用養育草」にも
記されている。
「稚児に拍手(かしわで)振頭を教える法」として、
子供に「歩み、歩みといひて歩行することを教え」、
次に、幼児手を動かす時に至れば
乳母の類、先ず教えるに拍手ということをなさしめるなり」
理由は、小児には、まず拍手を教えることは、
礼を教えるに古き遺法なり」として、
古きは「魏志倭人伝」にも、「敬する所を見れば、
ただ手を打つ」とあるので
弥生時代からもう拍手をしていたのでしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150430/12/1480sn/9a/49/j/t02200147_0800053313291592126.jpg?caw=800)
江戸時代は、子供は年頃になると寺子屋に入り、
字を覚え、御家流の字を書きます。
そうでないと公式文書を書けません。
役所に提出するには必須のものでした。
商人を目指すのは算盤などを覚えて奉公しました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150501/07/1480sn/99/6c/j/t02200252_0800091813292466775.jpg?caw=800)
算盤は、武士の世界でも同様に重要なもので、
幕府の御勘定所の入所試験でも必須科目でしたし、
「武士の家計簿」で登場した猪山家は加賀藩の
算用方が職場であったので、算盤は必須要綱で、
子供の頃から猪山家は子供を特訓しました。
或る時は、子供が答えを間違えると、
算盤で頭を殴り,
算盤玉が台所まで飛び散るといった体罰?を
与えてスパルタ教育をしてました。
お蔭で子供は算盤を活かして維新後も海軍で
身を立てることが出来たくらいです。
1朱銀(16分の1両)
![](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fd%2Fd8%2FBunsei-1shuban.jpg%2F200px-Bunsei-1shuban.jpg)
寺子屋に入るにはまず入学金(束脩)が要ります。
そして、授業料に当る謝儀、これは年5回払う。
1回あたり金1朱である。
その他に盆暮れなど謝礼もあるので、子供を寺子屋に
通わせると、親は今の金で年間3万円くらい
必要であった。
尤も、金のない家も多かったので、農家だと大根や
鶏卵10個などもあり、中には文具を分けて
くれるところや、或いは、請求もしない所もあったようです。
ちなみに現代、小学生の子供が居る家では、
年に7万円くらいが家庭教師や塾の費用であるという
いずれにしても教育費というのは古今を問わず
掛かるものらしい。
江戸には、女の先生も多く3割はそうであったらしい。
やはり、女の生徒には女の先生で、男には男である。
特に、大名屋敷の奥奉公をした女の先生は礼式にも
詳しいので行儀作法を教えられたので人気があったという。
そこには推薦で入店するなど、寺子屋の人気は
生活の資を得ると同時に繁栄にも繋がるものでした。
従って、有能な先生は引っ張りだこであったようです
今とは違い、師弟の結びつきは強く、
御礼参りなどないです。
弟子たちは成人すると感謝の意を込めて「筆塚」を
建立し、今も多くの塚が残ってます。