次は「節句 十軒店二階雛」


絵は、雛祭りの光景です。

昔、商家が10軒あった名残であるという。

十軒店本石町と切絵図には有る。

本石町とは、時の鐘が最初に置かれた所である。


十軒店では、二,三月が雛祭り市、四,五月が武者人形市、

十二月に羽子板市がたった。

他の町でも同じような市は立ったが、この十軒店が一番盛んだった。

縁起物は、値段は交渉次第。腕の見せ所です。


但し、掏摸が非常に多かったらしく、それには注意です。


並んでいる店は、テナントであり、時々、ダメで店を畳む人もいるが、

空店は、直ぐ塞がり借り手には事欠かなかった。

雛人形は、昔は、一種のお祓いの意味であって、

悪い精霊を追い払うために水浴をしたり、人形(ひとがた)で体を撫でて

身の汚れを移し、それを海や川に流して捨てたのが始まりとされている。

この人形を捨てるのを止めて、家の中で遊んだりし、

飾ったりするようになって「ひいな遊び」をするようになったのが、

平安時代ですから古い歴史を持っています。





そして、3月3日と定められたのが、室町時代の末辺りで、

この頃は、既に、楽しい遊びになってます。

江戸時代では、町人も一緒に遊んでいる姿が判る。


明治宮廷の雛祭りは、お人形の間で飾られたという。

他と違うのは、段が無い事である。

低い段の上に色々な人形を並べて飾った。

これは当然で、親王雛が実際の天皇を見下ろすわけにはいかない。

一番見事であったのは「立雛」で、

日本に一対しかないものだったという。


和宮が大奥で飾った時も、やはり毛氈の上に、まるで、畳の上に

転がっているような感じを受けたと大岡ませ子の印象が有りましたが、

やはり、近衛家の雛飾りもやはり同じようであった事から、

亰の公卿の世界では、このように段を重ねないで並べるのが

普通であったのでしょう。


ただ、近衛家では、その飾り方では場所を取るのでと、拘った方が

亡くなると、さっさと段飾りに変更されました。

ですから、公卿の世界でも段にも飾られていたのでしょう。

 井伊家雛飾り


それに対して、武門の家では徳川家もそうですが段を重ねて

まるで天井に届くかのように並べていました。



徳川宗家では、

鶴の間の床の間の横に2間通しで段を組み立てて4段でした。

ただ、1段目はかなり高かった。

普通の段の5,6段くらいの高さが有った。


子供たちは、軽いので上に上がってお雛様を並べました。

色々なものが有りました。

相当古いお内裏雛、小さいものが多かった。


中には、和宮の雛様もあり、神殿造りのものでした。

母のもあり、実家の丸に十字の薩摩藩の紋で、沢山あって全部は

出せませんでした。


色々な格好の官女、中には狆を引いたものもあった。

「狆引き官女」といいました。

明治の頃流行したようで、犬の安産にあやかったもので

あったようです。


 潮干狩り 品川


雛祭りに欠かせない、白酒や草餅、桃の花、潮干狩りは、

元の意味は、悪い精霊を追い払う行事であったという。


6枚目は「三ツ井 富士を看板や

越後屋呉服店の事である。



「店先売り」と「現銀(金)掛値なし」である。当時、一流の呉服店では、

前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、

直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的であり、

支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの

掛売りが慣習であった。

そのため、貸倒れや掛売りの金利がかさむので、商品の値が高く、

資金の回転も悪かった。高利はこの制度を廃止し、

店先売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制による

店頭販売での現金取引を奨励した。

現金売りによる収入は資金の回転を早め、二

節季払いの仕入れ先には数倍活用された。


もうひとつは呉服業者間では禁じられていた「切り売り」の断行である。

当時は一反単位の取引が常識で、どの店も一反から売っていたものを、

客の需要に応じて切り売りし、江戸町民の大きな需要を掘り起こした。

このほか、「即座に仕立てて渡す」というイージーオーダーである

「仕立て売り」も好評を呼び、

越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、

越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。

メタボンのブログ 尾張町

尾張町4丁目は銀座の中心です。

慶長8年家康が江戸の町作りの為に、10万石辺り百人の人夫を

大名に課した。その時にこの辺を受け持った大名が尾張家。

その名を取って尾張町と名を付けた。

駿河町は、富士山が最も良く見えたのでつけられました。

同じように駿河台は高台で富士山が見える所から名付けられ

旗本などの武家屋敷になりました。

 東都駿河台


江戸の町名というのは判りやすいです。

少しでも高台にあると「山」か「台」がつき、低い所は「谷」が付く、

相当数の山や谷が有るので、かなりの段差が有った地区で

あったことが名前でも判ります。

兎に角、坂が多い町でした。

 九段坂

これなど、明治になって学習院に通う華族の子は毎日、

登るのが大変な人力車の車夫を心配し、自分が下りればいいと

いつも思っていたそうです。

成程これでは、荷を積んだ車などは、バイトでいつも坂の下に居た

アルバイトの車押しの人足を頼むのも無理はないでしょう。



7枚目が「佃しま 御紋付白魚

「守貞漫稿」にも「白魚は江戸墨田川の名物とす。

細かき網を持って掬い取る。

夜は篝してこれを漁る(すなどる)」とある。


白魚といえば歌舞伎の「お嬢吉三」の名セリフが有ります。

月は朧に白魚の篝も霞春の空、つめてえ風もほろ酔いに 

心持ちうかうかと 浮かれ烏のただ一羽、塒へ帰る川端で、

棹の雫が濡れ手で粟、思いがけなく 手に入る百両・・・・



佃島名物の白魚を上から見ると、頭がい骨が透けて見え

徳川家の葵の紋に似た形が見えるという。

それで、御紋付の魚と云われた。

空理の切り口に見える種の配列も葵紋に似てるので

旗本たちは畏れ多いと食べるのを遠慮したという。

売れ残った魚を保存を兼て塩で煮たものが、今の佃煮の原型で

後に醤油が安くなると、醤油で煮た。

その結果、塩よりも美味である事が判り、その味が評判になって

今の惣菜として広く流通するようになった。


味付けが醤油のみだったので、今のよりはかなり塩辛かったようで

今の甘辛い味とは違っていたようだ。

しかし、大正になるまでは、醤油で煮たとの事である。

 白魚献上箱


白魚は現代も江戸時代から伝わる献上箱に、初白魚を入れ

徳川家の献上しているそうで、何か心温まる話です