札差

札差は、武士に代わって米を売買した。

米100俵に付手数料金3分であった。

それだけなら札差は富まない。


武士たちの貧窮さは目を覆うものでした

「世事見聞録」によると「なべて武家は大家も小家もなべて困窮し

別して小禄なるは身体甚だ見苦しく、衣類も四季節切のもの、

質の入れ替え、又は掛売りの呉服といへるものを借り込みて、

漸く間に合わせ、その甚だしきに至りては御番に出ずる時は

質屋より偽りて取り寄せて着用し、帰りたる時は、

元の質屋に返す也。

下人どもこれを嘲りて主人を侮り・・・」

 質屋

袴なども質に入れてしまうので登城する際は借りてくる。

又、小者なども共同で雇うようにし、費用の削減を図るのですが

そんなものでは追いつきませんでした。

でも、武士の体面を図らないといけないのです。


袴だけではありません。

下男も一人で雇うのが困難になって、共同で雇い、遣り繰りして

何とか無い金で都合したのです。




米の代金では物価の上昇に間に合わなくなった武士たちに金を

貸したのです。

最初は、今年度分からで次第にまだ収穫しない将来の分まで担保にし

年2割は安い方で、4割以上のもあったという。

約束の日に金を返せないと、証文を書き換え書き換え以前の利子と

以後の利子とを二重に取る「踊り」という方法もあった。


武士はそれに対抗して借金を他の札差の手形を渡して米を引き出したり

或いは、米蔵から米を直どりしたりしたが、結局、借金は増える一方で

幕府は困窮する武士を見かねて「棄損令」を出し救ったが、

一時しのぎだった。


一端は借金が無しになるが、元々金が無いので、借りようとしますが

棒引きされた札差が貸す訳が有りません。

従って、生活が困難に変わりはない。

札差は、18大通とも云われ豪奢な生活を送った。

しかし、天保の改革で株仲間が解散となり、次に、債券の無利子、年賦の

強請令を出されるに及んで藩h数以上が閉店し、明治には無くなった。


米といえば、仙台藩伊達家です。

米を仙台から搬入するために堀を掘って仙台堀まで造成して江戸に

米を輸送した藩です。


伊達家上屋敷



北上川の改修工事により、伊達家62万石は、40万石の増収となり

一挙に100万石の力を持ち、最大時には年間30万石の米を

江戸に送りだし、現在の飯田橋駅付近から秋葉原付近までの

土木工事を行い、堀を掘削し仙台堀と名付けられ米を輸送し

仙台米が江戸の米相場に大きな力を持った。


これは、買米制度と云い、余剰米を農民から買い上げてそ

れを当時は江戸の米価が高かったので大きな利潤を生み、

寛政3,4年には40とも50万両ともいわれる巨利を得たという。


小名木川 「広重

千葉の行徳から塩を運ぶために掘削された川でした。
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しかし、文化年間になると江戸の米価が下落すると忽ち利が失われ、

そこに蝦夷地警備の命令が下り、その費用、及び、関東河川工事の

お手伝い普請の2度に亘る下命により20万両の支出を余儀なくされ、

更に、天保年間の連年の飢饉が藩の財政に止めをさし、

借金を重ねるになり70万両という巨額な借財を重ね、表高62万石、

内実100万石と云われた伊達家は、内容は10万石の格式で

倹約をするようにまでなったのである。


伊達家7代目重村は、参勤交代で江戸を出て千住(江戸のすぐ近く)で

早くも金が無くなり、それ以降野宿と決めたが食糧が無いため

鳥を撃つことを命じた。

しかし、鉄砲は禁制であり、やむなく幕府は金を貸した。



他の大名も同じようなもので、庄内藩酒井家は譜代大名。

ある時、江戸からの帰り、福島まで来て旅費が底をつき国許から

金が来るのを待っていた。

事前に金を借りようとしたが間に合わず出発したためである。


このケースは、先代が老中を務めたが、老中になる為の運動費用

を回収できずに老中を致仕したので借金ばかり残り

参勤費用が出なかったのである。


 老中役宅

毎週、朝早く訪問する客でごった返します。

月にお城の太鼓が鳴るまで客の応接が出来るという日

対客日が4回あり、その他にも深夜訪問する人もいて

実力ある老中は客が絶えませんでした。

勿論、手ぶらでは行けません。黄白付です。

やはり、老中というのは小大名にとっては就きたい役職であり、

小身の大名が老中となり、大大名をつかまえて、「其の方」と

言えるのですから壮快でしょう。


水野越前も、唐津が知行地で、内情は表高の倍以上あった領地を

江戸に近い浜松に変えて貰うと運動して、浜松に移封され、

念願の老中になりましたが、移封に当っては家中の猛反対を

受け、老職がもしどうしても移封したいというなら、自分は腹を

切るとまで言って止めたが、結局、強行したので、老職は

腹を切ったという。


浅野侯も、何かお願いが有ったのでしょうか、老中屋敷に夜訪問

した事を書いていました。

何しろ、御忍びですから駕籠を乗り入れて、帰る時もそっと帰るように

直ぐ駕籠に飛び乗ったとあります。

人目に付きたくなかったのでしょう。

 老中登城

役人も下座しています

老中の役宅は。西丸下にありました。

老中になるとそこに移住し、役を離れると本来の屋敷に戻ります。

役宅の無いのが勘定奉行でした。

職住近接は町奉行でした。

なにしろ裏が自宅です。

武士の値段

生活の苦しい武士が婿養子や養子を取るという形で家系を金銭

で得るのである。

これを「金上侍」という



仙台藩伊達家の料金表


安永年間1770年代、アメリカの独立戦争の頃です。

1776年歴史を覚えるのに「いななる」と覚えました。

懐かしい!

それ以前の値段。

50両で農民でも帯刀出来、100両で名字を付けられる

千両で大番組、

後に不人気の為に半額となる。


理由は藩財政の悪化に伴うものである


盛岡藩値段俵


仙台藩よりは安いが、あまり、希望者が居なかったようで

天保14年(1843)には値下げして、3分の1になってる


大なり小なり、他藩でも似たような事が起き、献金の具合によって

身分が変更された。

これは、町人の武士になりたいという気持ちも強かったせいもある。

金が出来ると、次は血統です。

武士の血を願うのは無理もありません。

制度では士農工商です。