当初は、江戸も京阪に圧倒されてました。

しかし、京の豪商が大名貸で損を蒙り後退してくると同時に

江戸は次第に人も金も集まってきて首府としての顔をしてきます。

 日本橋

何故かというと、人口の半分、50万とも60万ともいわれる武士が

居たからです。

この巨大な消費市場を持っていたために、それを支える商人や

職人などが集まり、今の東京都の23区の半分くらいの面積に

120万人もの人が集まり巨大な町を形作ったからでした


江戸時代の後期になると、江戸はすっかり力を付けて京大阪と

肩を並べる勢いになり、盛んに三都の比較が出ました


中に書いてある文章はというと

「京の女性は大丸で拵えた着物を2度も染直し、

帯は西陣で2年かけて誂えた

「大阪の男は、最近食べたものをならべたて

年中食い物の事で忙しい。

食い物は酸いも甘いも知る尽くした・

江戸っ子は「酒は政宗に限るとしながらも、知人が酒を断ったと

云いながらも焼酎など飲んでいる」

江戸の飲み倒れです。


 三条大橋

曲亭馬琴は、京阪を旅行しての感想を述べて

京の印象として、好い物3つとして「女子・鴨川の水・寺社を上げている。

個人的に付け加えたいのですが、京言葉、良いですよねビックリマーク

東国武士は今日に行くと、誑かされて?上げては下ろされて

遂には滅亡したケースが多い。

代表的なのが、松尾芭蕉が敬愛した木曽将軍ですね。

源義経も当てはまります。



それは兎も角、悪しき事として3つ。

「人の吝嗇・料理・船便」を上げている。


吝嗇とは、やはり、「ぶぶ漬」のことでしょうか?

「ぶぶ漬でもどうどすか」と言葉を掛けながら、

まさか食べていくことは無いだろう、もし、食べていこうものなら

ボロカスに云われます。


料理はどうなのでしょう。やはり、薄味が気に入らなかったのかも、

グルメでないと、そうかもしれませんね。ウンウン。

 大坂 湯豆腐で有名だった料理屋・伊丹


馬琴が亰で最も驚いたのが、京の女の立小便でした。

身分の高い女は、頭から優雅に被ぎを被って歩くが、

道ではそのまま立小便する。


滝沢馬琴の随筆でも「亰の家々、厠の前に小便桶在りて、

女もそれへ小便する。

故に富家の女房も小便は悉く立ってするなり。

良賤ともに紙を用いず、妓女ばかり、ふところ紙をもちて

便所へ行くなり。

供、3人連れたる女、道端の小便桶へ立ちながら尻の方を向けて

小便するに恥じいることなく、笑う人も無し」



しかし、太田南畝の本にも記されているが、上方では普通の風習でした。

太田南畝は歌にして「田舎に勝る汚さは 軒を並べる町中で

おいえさんでも  おいとさんでも くるりとめくって立小便」

おいえさんとは、主人の妻で、おいとはんは、お嬢さん。

亰では、桶の小便を定期的に月に6回汲み取り、

それを畑の肥料としたのである。

それに対して、江戸では、小便を肥料としないのである。

上方は小便 朝のおつけの実


「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の呑みだおれ」

しかし、既に江戸は大坂から食い倒れを奪っていました。

安政2年(1855)京都町奉行に就任した久須美は、その著書に

「京の着倒れ、江戸の食い倒れ」と記している。


彼は、江戸と大坂の食を比較し、大坂の蕎麦は劣るが、

饂飩は美味、しかし、鰹が見かけないことに不満を表し、

豆腐は大阪が上としながらも食習慣で大坂は、

朝は前日の飯を茶粥にして食べ、

昼食に味噌汁を添えるなど、又、江戸では、

朝は飯を炊く事を話したら笑われたなどと書いている。

 大坂東町奉行所