![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150122/06/1480sn/cc/1a/j/t02200209_0800076113196100824.jpg?caw=800)
江戸時代の記録である「御仕置裁許帳」には、お金に困ると
武士と同様に女房を吉原に売る事が書かれている。
但し、「売る」とはいわないで「遊女奉公」として書かれてる。
「御定書」には、「商売をしている夫が妻が同意してないのに
売女させた時夫は死罪。
但し、飢渇の夫婦者が申し合わせて売女した時は、
他に盗みなどの悪事をしていない時は究明に及ばず」
つまり女房を遊女奉公に出す事は禁止なのです。
しかし、実際は両方示し合せての事が多く、その場合、
女房の実家からの通報で発覚することが多かった。
この場合、夫は一旦牢に入れられるがすぐ御赦免になる。
但し、それは、吉原で遊女奉公をした場合だけで、
岡場所の場合は全く異なった。
但し、例外もあります。
それは江戸城の数寄屋坊主が妹を吉原に遊女奉公に出した時は
これは死罪となりました。
妹となると違うのです。
しかし、こういう条項もある。
「父が娘を養女に出し友情奉公に出されたと、
実家から訴えが有っても取上げない」
父が娘を遊女奉公に出すのはOKなのです。
この事は、遊女上がりに対しての世間の評価と関係している。
当時は、遊女になるのは家庭の事情でやむなくなったことであり、
当人の過ちではなく、従って、遊女を落籍せて、
或いは年季を終えた遊女を女房にすることは普通であったのです。
幾代餅![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150122/06/1480sn/e7/d6/j/t02200312_0800113413196101167.jpg?caw=800)
これは、有名な「幾代餅」に代表される。
吉原で女郎をしていた時の源氏名を其の儘餅の名にして、販売し
大評判になった事である。
吉原は、遊女が源氏名を使うが、江戸城大奥では、下級女中が
源氏名を使うのです。
この辺が妙に面白いですね。
岡場所の摘発というと、御存じ遠山の金さんこと、遠山金四郎景元が
上げられる。
遠山というと名奉行の名が高い。
普通、名奉行と云われるのはある程度の実績が上積みされて「名」が
付くが、遠山だけは違うのである。
奉行就任後1年後には、もう名奉行といわれた。
江戸城吹上茶屋
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150123/13/1480sn/ee/35/j/t02200153_0800055813197164212.jpg?caw=800)
理由は、将軍の面前で行う「公事上聴」であった。
北町奉行であった頃、天保12年、11代将軍家斉の前で他の奉行と
同じように裁いて見せたのである。
案件は、養子縁組のもつれと盲人の出入りについての問題であった。
この裁きを将軍は激賞し、その場では他の奉行と一緒に決まりの
拝領物を下賜されたが、2日後、遠山にだけお褒めの言葉が有った。
「今般の振舞い格別の儀、奉行たるべきもの、左もこれ有るべく候」
将軍の御墨付である。
このお墨付きが有ったので、後年、12代家慶の時、水野越前が改革を
行おうとし、主に「贅沢は敵だ」をモットーにして様ざまな規制・締め付けを
行い、前の戦争中もこのスローガンは有りましたね。
遠山は、暗に陽に反対をしても、クビにならなかったのは、
恐らくは、このお墨付きのお蔭であったのではないかと思われる。
もう一人の反対した南町奉行の矢部は、無実の罪を被せられて
罷免され、遠流となり、その後、絶食し亡くなりました。
遠山というと桜吹雪である。
勿論、役人になってからは見せる事は無いでしょうが、
若き金さんの姿を目のあたりにした方が居ました。
文政年間、この頃は、芝居のお囃子に旗本の遊び好きの貴公子が
やる事が多かったという。
或る日、森田座の出来事です。
囃子方に30歳前の吉村金四郎という血気盛んな若者がいて、
座付作者と大喧嘩となり、腕まくりしたら、髪を振り乱し巻紙を咥えてる
女の生首が現れ、皆驚き大笑いしたという。
森田座![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150122/06/1480sn/31/ff/j/t02200130_0800047113196101708.jpg?caw=800)
又、後年、与力見習いとして2年間遠山と一緒に働いた事のある
佐久間が維新後「江戸町奉行事績問答」で述べている。
「遠山は書生中はいずれの場所にも立ち入り、よく下情を探索して
後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為の人物なりしが、
外見は放蕩者似て身持ち悪しく、身体には彫物と唱え墨を入れ、
武家の鳶人足、大部屋の中間まで交際し、」
幕府は、当年「刺青禁止令」を出していたが、北町奉行が
彫っていたのである。
さて、その遠山は、岡場所の摘発に熱心だったが、見るべきところは、
逮捕後に老中に充てた上申の内容である。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150122/06/1480sn/bc/6e/j/t02200145_0800052913196100708.jpg?caw=800)
ちなみの岡場所の取り締りというのは、絶滅するというのが目的ではない。
必要悪であるという認識の上にある。
これは江戸は、独身男性が圧倒的に多かったという事もある。
天保12年(1840)の12月初め、料理屋や茶屋などを一斉手入れ
業者60人と100人を超える隠売女を逮捕。
女の年令は14歳から42歳までだが、殆どは、17,8歳から20歳半ば。
深川岡場所![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150123/13/1480sn/0d/f6/j/t02200253_0800091913197165271.jpg?caw=800)
そして12月15日、金さんは長い意見書を添えて老中水野越前に提出した。
「この度召し捕り候淫売女に紛らわしき所業のもの共、落着申し渡し
の儀、御内慮伺奉り候書付」
内容は、陰売女の取締の歴史に始まり、迅速な裁判が、
如何にその日暮しの者には如何に大事な物であるかを述べていた。
要点は、当時は捕まると3年間吉原で只働きをしたが、
それを丸3年ではなく延べ3年にすることを要請したもので、
時は12月後半の為に、10数日を1年と数えるものでした。
幸い、意見書は通り、女達の刑期を1年短縮できたものでした。
「天保12年に至り落着申し付け候ては、来る店舗15年の正月までの
年季明け期に相成り申す。
女子とも身分に取り候ては、凡そ丸1年の間、
憂苦の勤めを増し候儀これあり。
僅かの吟味手心で格別の年季に長短これあり候あば、
何とも不便の儀、畢竟その日稼ぎの者ども、親兄弟等の長病、
又は不慮の災難に遭い渡世営み兼ね、飢渇にも及ぶべく類、
止むことを得ず。
右体の稼ぎ致し候ものもこれ有るべく、当年中の決着申し渡し候
よう相成り候えば、無心の女子ともは御仁恵を賜り候意味も
御座候」
ただ、こうして捕まった女についても、親の病気等でやむなく
勤めてる場合、或いは、貧乏であったためにしている女については
情状酌量された。