江戸時代の記録である「御仕置裁許帳」には、お金に困ると

武士と同様に女房を吉原に売る事が書かれている。

但し、「売る」とはいわないで「遊女奉公」として書かれてる。

「御定書」には、「商売をしている夫が妻が同意してないのに

売女させた時夫は死罪。

但し、飢渇の夫婦者が申し合わせて売女した時は、

他に盗みなどの悪事をしていない時は究明に及ばず」


つまり女房を遊女奉公に出す事は禁止なのです。

しかし、実際は両方示し合せての事が多く、その場合、

女房の実家からの通報で発覚することが多かった。

この場合、夫は一旦牢に入れられるがすぐ御赦免になる。

但し、それは、吉原で遊女奉公をした場合だけで、

岡場所の場合は全く異なった。


但し、例外もあります。

それは江戸城の数寄屋坊主が妹を吉原に遊女奉公に出した時は

これは死罪となりました。

妹となると違うのです。


しかし、こういう条項もある。

「父が娘を養女に出し友情奉公に出されたと、

実家から訴えが有っても取上げない」


父が娘を遊女奉公に出すのはOKなのです。

この事は、遊女上がりに対しての世間の評価と関係している。

当時は、遊女になるのは家庭の事情でやむなくなったことであり、

当人の過ちではなく、従って、遊女を落籍せて、

或いは年季を終えた遊女を女房にすることは普通であったのです。

 幾代餅


これは、有名な「幾代餅」に代表される。

吉原で女郎をしていた時の源氏名を其の儘餅の名にして、販売し

大評判になった事である。


吉原は、遊女が源氏名を使うが、江戸城大奥では、下級女中が

源氏名を使うのです。

この辺が妙に面白いですね。


岡場所の摘発というと、御存じ遠山の金さんこと、遠山金四郎景元が

上げられる。



遠山というと名奉行の名が高い。

普通、名奉行と云われるのはある程度の実績が上積みされて「名」が

付くが、遠山だけは違うのである。

奉行就任後1年後には、もう名奉行といわれた。


江戸城吹上茶屋


理由は、将軍の面前で行う「公事上聴」であった。

北町奉行であった頃、天保12年、11代将軍家斉の前で他の奉行と

同じように裁いて見せたのである。



案件は、養子縁組のもつれと盲人の出入りについての問題であった。

この裁きを将軍は激賞し、その場では他の奉行と一緒に決まりの

拝領物を下賜されたが、2日後、遠山にだけお褒めの言葉が有った。

「今般の振舞い格別の儀、奉行たるべきもの、左もこれ有るべく候」

将軍の御墨付である。


このお墨付きが有ったので、後年、12代家慶の時、水野越前が改革を

行おうとし、主に「贅沢は敵だ」をモットーにして様ざまな規制・締め付けを

行い、前の戦争中もこのスローガンは有りましたね。

遠山は、暗に陽に反対をしても、クビにならなかったのは、

恐らくは、このお墨付きのお蔭であったのではないかと思われる。

もう一人の反対した南町奉行の矢部は、無実の罪を被せられて

罷免され、遠流となり、その後、絶食し亡くなりました。

遠山というと桜吹雪である。

勿論、役人になってからは見せる事は無いでしょうが、

若き金さんの姿を目のあたりにした方が居ました。


文政年間、この頃は、芝居のお囃子に旗本の遊び好きの貴公子が
やる事が多かったという。


或る日、森田座の出来事です。

囃子方に30歳前の吉村金四郎という血気盛んな若者がいて、

座付作者と大喧嘩となり、腕まくりしたら、髪を振り乱し巻紙を咥えてる

女の生首が現れ、皆驚き大笑いしたという。

 森田座


又、後年、与力見習いとして2年間遠山と一緒に働いた事のある

佐久間が維新後「江戸町奉行事績問答」で述べている。


「遠山は書生中はいずれの場所にも立ち入り、よく下情を探索して

後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為の人物なりしが、

外見は放蕩者似て身持ち悪しく、身体には彫物と唱え墨を入れ、

武家の鳶人足、大部屋の中間まで交際し、」


幕府は、当年「刺青禁止令」を出していたが、北町奉行が

彫っていたのである。


さて、その遠山は、岡場所の摘発に熱心だったが、見るべきところは、

逮捕後に老中に充てた上申の内容である。




ちなみの岡場所の取り締りというのは、絶滅するというのが目的ではない。

必要悪であるという認識の上にある。

これは江戸は、独身男性が圧倒的に多かったという事もある。


天保12年(1840)の12月初め、料理屋や茶屋などを一斉手入れ

業者60人と100人を超える隠売女を逮捕。

女の年令は14歳から42歳までだが、殆どは、17,8歳から20歳半ば。

 深川岡場所


そして12月15日、金さんは長い意見書を添えて老中水野越前に提出した。

「この度召し捕り候淫売女に紛らわしき所業のもの共、落着申し渡し

の儀、御内慮伺奉り候書付」


内容は、陰売女の取締の歴史に始まり、迅速な裁判が、

如何にその日暮しの者には如何に大事な物であるかを述べていた。


要点は、当時は捕まると3年間吉原で只働きをしたが、

それを丸3年ではなく延べ3年にすることを要請したもので、

時は12月後半の為に、10数日を1年と数えるものでした。

幸い、意見書は通り、女達の刑期を1年短縮できたものでした。


「天保12年に至り落着申し付け候ては、来る店舗15年の正月までの

年季明け期に相成り申す。

女子とも身分に取り候ては、凡そ丸1年の間、

憂苦の勤めを増し候儀これあり。


僅かの吟味手心で格別の年季に長短これあり候あば、

何とも不便の儀、畢竟その日稼ぎの者ども、親兄弟等の長病、

又は不慮の災難に遭い渡世営み兼ね、飢渇にも及ぶべく類、

止むことを得ず。

右体の稼ぎ致し候ものもこれ有るべく、当年中の決着申し渡し候

よう相成り候えば、無心の女子ともは御仁恵を賜り候意味も

御座候」


ただ、こうして捕まった女についても、親の病気等でやむなく

勤めてる場合、或いは、貧乏であったためにしている女については

情状酌量された。