小伝馬長牢屋敷

牢屋奉行として、代々石出家が勤めた。

身分は300俵10人扶持取り、武鑑には、公人朝夕人に続いて

最後尾に記されている。

公人朝夕人とは、将軍が束帯時、小便する時に

小便筒を持って手伝う、将軍の何を引っ張り出す役で以前紹介しました。


町奉行の支配下に置かれ、牢の鍵も持たされておらず、かの有名な

明暦の大火の際の囚人の解き放ちの時は、牢を壊して囚人を

火事から逃げ出させ、その後、火災の時にはそれが慣例となった。

手を合わせて感謝する様子


但し、この囚人を放した時、近くの浅草門を守っていた番人は

脱走したと勘違いして浅草門を閉じてしまった為に、外に出られず

多くの人が堀に飛び込み2万人ともいう犠牲者が多く出た。

 堀に飛び込む人たち

牢屋同心58人、下男38名を配下とし、牢内の取締、死刑の時の

立ち合いを務めた。

その為、不浄役人と云われ、登城もせず、他の幕臣との交際も

しなかった。


敲き刑の場合、女性の場合は、まさか腰巻一つになって

敲くわけにはいかないので、その代わり、50敲きなら50日、

100日なら100日間牢に入る。

これを過怠牢といった。


女牢は広さ18畳、囚人は大体40から50人、従って、1人1畳も無い。

男牢と同じであった。


女性の場合、妊娠している時もあります。

それが重い罪である場合、死罪以上の罪である場合は、

「火罪、獄門、死罪は懐胎を斟酌する事なく行って宜しい」

とあったが、その後、生まれるはずの子には責任が無いという

同情論が出て改められた。

「出産の後、死罪に申し付けれるべく候」

出産の場所は勿論牢内である。

そして、出産後50日後に死罪が執行された。

50日間、乳を飲ませて宜しいという事である。

生れてくる子は、牢内で育てられたのであろう?

江戸時代は、座産であり、天井から綱を下げて、産婦は葛籠等に

腰を掛けて綱を手に取り、出産した。


男の場合は、御目見え以上の直参が入る揚座敷が4部屋あった。

ただ、大体、ここに入る前に自決するケースが多かった。

御目見え以下の直参や大名の家来である陪臣が入る揚屋が5部屋、

それ以外である庶民・百姓・無宿者が収容される大牢が東西2部屋。

2間牢が東西2部屋、百姓牢が1部屋、合計で10部屋である。


旗本や御家人が絡んだ時は、老中から書状が届きます。

人名が書かれていて、そこには、

「一通り尋ねの上揚り屋座敷に遣わす」或いは入牢の時は

「一通り尋ねの上改めて入牢」というように奉行宛てに

届き、それが部下に渡される。

何しろ、将軍の家来ですから気を使います


医師

これは評定所で取り調べが有る時も細かく座る場所が

定められていた。

御目見え以上は座敷などは当然だが、御目見え以下の御家人や

陪臣(大名などの家来)、出家、山伏、検校などの盲人は縁側に、

扶持人、医師、御用達商人、同心格、伊賀者、代官手代、

軽き御家人は、薄縁であった。


徒士、足軽、浪人、軽き山伏、社人は白洲である。

牢人というのは軽く見られていたのですね。

元は武士と云っても禄を食んでいない以上は、

庶民と同じ待遇なのです。


こうして見ると、江戸時代の医師というのはかなりい加減で、誰でも

今日から医師になるといってなることが出来るくらいのものだったが、

しかし、意外にも評価されていて、渡し舟に乗る時も時も武

士と同じく無料であるとか、やはり、中には腕の良い身分の高い

医師もいたので身分上は高かったのでしょう。


腕の良いと云えば、幕末に知られた医者では、原南陽がいる。

水戸徳川家に500石という破格の待遇を受けた医師である。

通常、医師であれば100石嘉200石が普通であるから異常といっても

いいくらいである。


彼の家は代々医師であった。

亰で医学を学び江戸で修業をし、江戸小石川の裏店にて医者をした。

しかし、全く流行らず開店休業で、按摩鍼灸によって生活をしていた。

大の酒好きであったという。

 水戸徳川家上屋敷


しかし、或る日運命の日を迎えます。

同じ小石川には水戸徳川家の上屋敷が有りました。

殿様が食あたりになって苦しみ、あらゆる医師を呼んで手当をさせたが

全く病状は好転せず、人事不省に陥ってしまった。


家中は大変困りましたが、その時、家中の一人が、実はこういう腕の良い

医師がいます。一度見て貰ったらと進言します。

藁をもつかみたい水戸家は早速呼んでみました。

それが原南陽です。


彼は患者を診断して、或る薬を服用させます。

そして、彼は1時間後には殿様が吐瀉するので、それまで台所で

好きな酒を頂きたいと希望し、薬が効いてくる間酒を飲んでた。

やがて、薬が効いて吐瀉し、そして、体が回復したのです。


実は、この薬は劇薬であったのです。

本人は自信が有っての事だったのでしょう。

回復した殿様、原を抱えよ、と自分の侍医に抜擢し、500石を与えた。


その薬代は9文でした。

掛かった費用9文で500石を手に入れたと世間は注目し、名医と

評判を取ったのである。