初音の馬場


馬喰町と書く位ですから、元々は家康が江戸に入府した時は、

馬とそれを世話する博労が集まった町であり、馬を調教する馬場、

初音の馬場もあり、武士がよく馬を責めていた。

戦国ですと朝4時に起きて馬を責めるのが日課であったと云われる。

ただ、泰平が続いた当時は馬場は火除地となって、そこには

絵にもある様に、近くに有った染物屋が染めた反物を一杯並べて

干し場として使用していた。



藍染木綿は色々なものに使われました。

柄も豊富であり、歌舞伎俳優がそれぞれ柄を編み出して流行となり、

芝翫柄や吉原つなぎなど豊富でした。

又、当時は「弘め」といって、例えば芸能の諸流・長唄・三味線、舞踊

はたまた屋敷を購入、家主になった時など非常に多く「弘め」が

行われ、手拭を作り名を入れて、大体料理屋などで行われ襲名披露した。

 

 有松絞り

一番有名であったのは、東海道鳴海宿の有松絞でした。

藍色に染めた綿を絞りの加工を入れることによって多彩な柄を生み出し、

一躍街道の人気となり江戸にまで及びました。


福岡の宅子も、その一行も又、女性には大人気であったスポットでした。

「尾張の国愛智の郡・有松の村に至る。

此の里に様々な絞り木綿というものをうるとて賑わしき処なり。」

清川の「西遊草」でも「絞り屋は17,8軒もあらん。

いずれも至って高大なる構にて美々しき事也」

「東海道名所図会」によれば、「細き木綿を風流に絞りて、紅藍に染めて

商うなり。此の市店10余軒あり」

尾張徳川家は、これを専売品として大切に保護した。


そして清川八郎は、ここで3両もの大きな買い物をし、

江戸・馬喰町の定宿に送らせる。送料はサービスだということです。

「高値のものゆえ、余計にはあがのうべからぬ物也」としている。

 有松絞の宣伝 市川団十郎が出てます。
メタボンのブログ


幕末には、14代家茂が2度立ち寄ったという記録が宿の有松絞の店に

あり、恐らくは和宮や大奥へのお土産として買い求めたのでと思われる。

 鳴海宿

左に有るのが有松絞の店


 与話情浮名横櫛』

切られ与三郎、「イヤサこれお富、ひさしぶりだなア…」

祭などは典型的なもので、町内で揃いの物を染めさせ披露した。


それは兎も角として、馬喰町は、家康江戸入国以来として、旅人宿が

100軒くらい並んでいた町で、初期の江戸では、他には、旅籠は有りません。

それが元禄の頃になると、新しい旅籠が出来ます。

「百姓宿」と云われました。


当然ながら、客を巡っての取合いが始まり、旅人宿は訴訟を起こし

家康以来の看板で、江戸見物や通りすがりの人、及び、

身寄りや知り合いの無い人は旅人宿でしか宿泊できないように訴えて、

認められました。

これは、長屋などでも誰でも宿泊などは出来ません。

やはり、治安を考えての事であったのでしょう。


ただ、旅人宿はこの町にだけでした。

それに対して、百姓宿は、江戸中に散らばっていたので地の利が有り

何の関係の無い人も、知っている人だからという名目で宿泊させるように

なり、客の取り合いの争いは絶えなかったようです。


江戸時代、江戸観光というと4つの観光コースが有り、それは全て、

この馬喰町が起点となっていました。

これは宣伝で作られたガイドブックがあり、出発地が全て馬喰町の

旅籠になっていた。

 旅人宿

以前、山形の女性・清野の旅日記を紹介してる時に、清野が

江戸に来た時、馬喰町の旅籠に宿泊したのです。

驚きました。

この旅人宿というのは、宿泊だけで内風呂など有りません。

清野は豪商の奥さんですから、どうして、こうした所に泊るのだろうと

調べたら、ここが観光コースの起点としてガイドブックに紹介されて

いる為に、ここをに宿泊したのです。

ただ、2日目からは宿を変えていて、立派な所に移動しています。


清野の泊りは馬喰町の大松屋である。

ここはやはり羽州人の定宿であった。

旅籠の印象は書いてないが、旅人宿であるから、

立派とはいえなかったろう。

「守貞漫稿」にも、「客を台所に集めて食せしむ。朝夕ともしかり、

自室に浴室あるのは稀で、多くは銭湯」とある。

この地帯は公事宿で知られた処であり、訴訟で江戸に来た人が

泊る宿が密集していた。


訴訟というのは現代も同じだが時間が掛かります。

従って、長期滞在になり費用も掛かる。

金の掛からないように生活する必要が有ります。


国々の 理屈を泊める 馬喰町


江戸の場合は、観光は東西南北の4つのコースに分かれていました。

ガイドは、江戸では常時待機していたようで、

ガイドブックなどで紹介されていて、予約していたようです。

料金は、場所によって違いますが、

1人100から150文であったようです。

やはり、時間が限られてるので、名所を効率的に回るのは

ガイドが居ないと大変であったようです。

愛宕山


旅籠手配で付きますが、1組人数に関係なく250文

というのが、既に知れ渡っていたようであり、先年と同じとあるので

前に行った人から値段を聞いているのでしょう。

吉原案内込みですと300文。



ちなみに、この町の旅籠の宿泊代は、大体、宿泊だけで150文くらい

飯付ですと230文。

ですから、訴訟などで半年もいると、居るだけで10両くらい掛かり、

それに髪結代(何日に1回は行きませんといけません)


湯銭代、書類を一杯書きますからその筆墨料や代書料、紙代

呼出が有ると奉行所に行くとその付添料(長屋の場合ですと

1日300文くらい)、これ等だけでも20から30両、合わせると

50両掛かる。


宿にじっとしてるだけでこれだけ掛かり、これに堂社見物、芝居など

加えたら100両くらいは飛んでしまう。

しかも、勝ち訴訟ならともかく負け訴訟なら金を取られるのだから

貧乏人には訴訟は出来ません。




旅籠は、大名や旗本と提携していて、大体、地方から出てくると

提携先の旅籠に宿泊します。

勿論、安全という事もあるし安心できて、料金も割引になっていた。

大体が、国の名を使っていたので判り易かったようです。


そして、この宿の中には、「公事宿」といって、今の弁護士のような

役割を果たし、訴訟に不慣れな人を代行して一緒に奉行所に

行ったり、訴訟の書面の作成などをし、勿論、その間は

宿泊するので遠隔地から来た人は、滞在費用や時には、証拠を

求めて帰国したりし、訴訟費用は莫大なものとなり、かなりの

負担を強いられました。

逆に、江戸の人はこれらの事を狙って理不尽な訴訟を起こし

上記の費用を負担をする事を考えた時、訴訟するなら

示談に持ち込ませようとする人もいたようです。