染井

中に植木屋多しと書いてある。


江戸の植木屋

寺社や神社の縁日には参道に植木屋が並ぶために、江戸の人々は

参詣のついでに楽しみながら歩き、植木や花木を買っていた。

幕末の江戸を紹介した「江戸の夕映え」では、繁盛していた縁日として

茅場町の薬師、薬研濠の不動尊、上野3橋の摩利支天、神楽坂の毘沙門

虎の門の金毘羅、内神田の毘沙門天が盛んであり、この内、

茅場と薬研濠では植木店が多く出ていたという。


以前グルメと歌舞伎通いに明け暮れた隠居の大名柳沢信鴻は

浅草寺参詣するのが定番であり、広小路で植木をよく買った。

「江戸名所図会」にも紹介されてるように、「ここは毎月3,8の日

このところ市立ちしとぞ」とあるように、毎月3と八日に来ている。


広小路だから、植木屋は仮設の店舗であるが、雷門の前に

店がずらっと並んでいて売っている姿が絵にもある。


湯島天神の前の道も同じで、「江戸名所図会」では「25日には

植木市ありて、殊更賑わしく壮観なり」とある。

又、茅場町も植木市が盛んで、縁日は毎月8,12日、門前の

2,3丁の間、植木の市立てり」

2,300m植木屋が並んだという。


 茅場町の植木屋


この縁日での買い物様子を先ほどの本では、

客「おいおい、其の鉢の梅は幾らだ」

植木屋「旦那これは随分の古木です。

お安く負けて2両2分にしましょう。

客「こっちの鉢無しのは、

植木屋「こっちは3貫500」

客「両方で2朱やろう」

植木屋「旦那ご冗談仰らないで買ってください」

客「嫌ならご縁が無いのだ」

植木屋「もしもし旦那、そんなら1分やってください」

客「そんならもう300やろう」

植木屋「口明けだ、願っておきましょう」


当時の金相場は、1両は4千文である。

両・分・朱という金の単位と、貫・文という銭貨の単位を言い合ってるので

どちらが得なのか判らないのがミソである。


この当時、滝沢馬琴も庭いじりが好き逢ったようで記録が有る。

庭の葡萄棚の修繕と樹木の刈込、それに雑草取りが仕事であった。

ただ、林檎の木に虫が付いてるので、管で塩水を注入したが

失敗であったようだ。


この時、植木屋を呼んでいたので1日の労賃が書いてある。

植木屋の賃金は、1人3匁、1両が60匁とすると、20日働くと

1両になる。従って、植木屋の職人の収入は1両を超えるくらいであった。


植木屋というと、伊藤伊兵衛が有名である。

ここには歴代の将軍も幾度も顔を見せて買い物をしている。

 染井の植木屋

享保12年には、吉宗の子・家重が染井に来て買物をしている。

霧島2、オランダ躑躅1、楓3、野田藤2、白山吹2、山杏2、桜川躑躅1、


8代吉宗も享保13年、将軍・家重も宝暦4年、家治は安永8年から

3回訪れている。



11代家斉は9回も訪れている。
御庭番の川村家の日記でも、度々、将軍家斉のお供で雑司ケ谷に

出るとあった。


又、染井だけではなく三河島も植木栽培が盛んであった。

これは11代家斉が非常に植木を好んだことも影響し

大名も又、庭に関心を持ったことが大きい。


中でも植木職人の七郎兵衛は将軍家出入の植木屋となって

名字帯刀を許され伊藤と名乗っている。


伊藤は、最盛期には職人100人、奉公人30人、番頭10人を抱え

家の庭には1200坪の汐入の池のある庭園には、燈籠50、庭石600

井筒3ヶ所が有ったという。

丸で1万石の格式だと評された。

 庭

伊藤の製作した庭園では、沼津藩主水野家の屋敷の庭園を造っている。

「浩養園」である。

江戸の三大植木師の一人でもある。


家斉の事は、旗本夫人井関家でも記されている。

家斉から拝領の鉢植えが有った。

天保11年10月4日。

「下総作りと云って、枝を見せず山の形に整えたものが流行っている。

西の大殿・家斉様は殊に植木を好まれ、この下総作りをご覧になり

お褒めになられた。

この事が世間に知れ渡り、もてはやされるようになった。

葉の小さいものは、根岸五葉、会津五葉がある。

これらを植える鉢にも今流行しているものが有って、花鳥山水は

古めかしいとされている。


過日、将軍家から頂戴したのは、大変大きく、唐物で絵は山水の麗しい

もので、植木屋もこの鉢植えが一番と褒めていた」

  将軍より拝領の鉢植え
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浜離宮の誕生は万治2年(1659)に遡る。

この年、3代家光の子綱重(初代甲府藩主)に対して「木挽町海涯水上

1万5千坪給わり、別墅の地とせらる」


別墅とは別荘の事ですが、それはともかく海中にある土地(海涯)を

与えるからとあるが、買い婚は自分でしなさいというのだから困ったでしょう。

家光の代ですから、財政豊かでしたから援助は十分あったのかも

しれないですね。

更にその追加されて、現代の敷地の約7万坪に至った。


時が過ぎて6代家宣の頃になると、浜離宮は、今の迎賓館のような

役割をして、朝廷からの賓客を接待する役目になってる。

或いは、海に面しているために、将軍が軍船を観覧する場所ともなっていた。

潮入れ式の庭園であるため海に繋がっているので移動は容易であった

あった為であろう。
 晩年のみね

浜御殿の事を、将軍御殿医の娘のみねはこう記している。

広い広いお浜一帯どれくらい有りましたでしょうか。

決して私どもが近づいてはいけない所も多う御座いました。

御殿の御庭の下には金銀の棒が丸太でもあるように入れてあったり

しました。

それより幼心に残っているのは、「おはま」といえば梅。

行けども行けども梅で、これは梅の花よりむしろ梅の実を

珍重していたしました。

それは奉行の役得になっていたようでした。」

 みねの母の実家は、父が浜離宮の奉行であった為に、

幼い頃から出入りしていましたので愛着が非常に強いです。

幼い頃の述懐であり、晩年になってももう一度浜離宮を見たいと

云い、しかし、それは果たせませんでした。


歴代将軍はそれぞれ使いましたが、吉宗は、殆ど来てない。

これは、綱吉や家宣の側室がここに住むようになったことも

原因として有るようである。


ただ、面白い使い方をしています。

さつま芋を飢饉などに備えてか、ここで試植させたり、或いは、

弓の矢にする為に真竹を600株植えさせている。

又、天体観測の場としても使用している。

ここの庭で狼煙に火を付けて、それを江戸城で見えるかどうかの

実験をしているのである。


御存じのように、花火は狼煙を基にして出来たもので、

回りの大名は、これを見て自藩でも狼煙の研究をし、

こうした実験が後に花火の発展に繋がったのでしょう。


吉宗以降の将軍は殆ど利用していない。

それが変わるのは、11代家斉の時です。

利用目的は、狩猟場として使うのです。

寛政3年(1791)に始まり文化6年(1809)まで毎年10月から

2月までの間何回も利用している。

狩りに芽生えたのです。


それに対して、家斉の妻と娘はここで釣りに熱中している。

幕末の能吏・川路聖謨も家斉に他の人と一緒にですが招かれ

文政9年(1826)8月妻の後の広大院は、城から駕籠で着くと

汐入池の中島の茶屋で休息の後、釣り殿で釣りをしている。

「いを(魚)も数多得給ふければ、興にいらせ給ひ、いましばしと

おぼし給へと日もたけぬとて昼の御ものきこしめし・・」

沢山釣れたので面白かったのは、今少し今少しと、頑張ったようです。


娘の盛姫も来てます。

天保4年(1833)8月3日、「釣りする竿のさし引きなど人々教え

給へるるに、いとうれしくめずらしく」と本人の姫が書き残している。

城から出ることが非常に稀ですから、それは楽しかったのでしょう。

妻の広大院が、寺の参詣に行く時も、道の両側や上も白布で

蔽い隠し、見えないないようにし、寺に入ってからもやはり、

道の両側を布で隠し、見えるのは空だけであったと、旗本夫人が

記していました。

それほど、御台所というのは、尊重されるべき存在であったのです。

釣りをしています。


ちなみに江戸城大奥の庭園の様子は、彼女らの少しあとの

13,14代将軍の時の様子です。


大奥の長局は、位の高い女性たちが住む(一の局」がありました。

最も南に面し、15部屋あり、部屋は間口が3間(5,5m)奥行7間

2階建てでした。

2階には、奥女中が私的に使う奉公人が住んでいた。

 長局2階

「一の側に属する庭は各3〇坪あり水道の自由有れば、何れも泉水、築山

石燈籠あり。

樹の植え付けももまた風流にて、向島辺の料理店などの庭に似て趣あり。


それに対して、一般の女中が住む二・三側の庭は、

「庭形も無く勝手に草花まど植えあり。

絶えて眺め無し」と惨澹たる様子です。


浜離宮
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11代家斉は、浜御庭を大改修し、庭を見るだけでなく、

客を招いての園遊会も開いた。

時には部下の慰労の為か、役人を招いて園遊会をした。

資格として布衣以上の役職者で、諸太夫の者や老中なども出たので

是に参加することは栄誉であった。

  布衣
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布衣とは、狩衣に似たもので幕府の典礼・儀式に

旗本下位の者が着用する

旗本下位の者は、礼装は素襖とされているが、布衣の着用を許されれば

六位相当叙位者と見なされた。


有能な官僚であった川路聖謨も勘定所留役の時、招かれた。

留役というのは、幕府の金が出る時に確認をする役目で、

その印が無いと出金できません。

金庫番です。


   浜離宮・汐入の池

天保5年(1834)8月、家斉が浜御庭に御成になるということで大目付と

三奉行から御庭拝見を許されるとの通達を受けた。


家斉はよくここに行ったようで、水路で行く場合は、御座船で隅田川を下り

浜御殿の御船着場から上陸した。


午前7時に御庭の門に集合、入口の所で家斉の御目見えがあり、

その後小姓の案内で中に入った。


御庭の亭(ちん)などは自由に見ても良いという。

亭とは茶亭の事です。

 水戸藩下屋敷御亭(おちん)
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気に入った植木が有れば苗木を抜くようにという事だったので、

数本抜き取り紙に包んで申し出ると、帰る時に鉢植えにして下賜された。


釣も出来るというので、十数カ所に設けられた釣り場に行き

釣りを楽しんだ。

魚は、鯉、鰻、鱚、コノシロ、さよりとかいろいろな魚が夥しくいた。

釣りを楽しんでいると、家斉が「さよりは嘴が尖ってるので釣り難いが、

大きいのを釣れ」などと声を掛けて回っている。


そして魚が釣れると小納戸番が籠に入れ家斉に披露した。

御庭には、酒や料理が用意され、梅酒も有った。

  浜離宮の釣
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帰りには、植木と岡持に鮨や菓子などが入っていたという。

こうした遊びは、各自の働きぶりを評価されてのものであるから、

選抜されたものにとっては栄誉の事であり、思い出になったものだという。


川路は後に江戸城開城の日に自決します。

それを聞いた幕臣の中には、不快感を示した人もいたという。

何故、御家人上がりの川路が殉死のような形を取るのは、

可笑しいという事です。

Toshiakira Kawaji.jpg

しかし、川路は、この釣りの事もそうですが、奉行に任命されて

道中の時も、立派に10万石の格式で道中を飾らせて貰い、

感謝の念を深く持っていました。

川路にとって、将軍とは、偉大な統治者であり、感謝すべき

人であったから自決したのではないかと思います。

最後の古武士といわれまし。


家斉の後の12代家慶の時代は、殆ど来ることが無く、

修復の記録だけが有り、13,14,15代と将軍が変わるが

アメリカのペリー来航などで段々軍事基地としての重要性が

帯びてくるのである。