同じく「御定書」の中に、「売人買人を拵え、偽物を商い候者、入れ墨の上

中追放」がある。


女性の髪を飾るものとして、笄や櫛が有ります。

最高級の物としては「玳瑁(たいまい)」と呼ぶものが有りました。 

   玳瑁(たいまい)」

タイマイ


江戸初期、熱帯の海で育つ亀の甲羅を櫛や笄等にと輸入された。

名前も同じで「玳瑁」と呼んだ。

しかし、だんだん品薄となったのか輸入が途絶え、代わりに登場したのが

鼈(すっぽん)で、カメからスッポンになったのです。

当事者からすれば、いい面の皮、いや、いい背の皮ですか。


すっぽんの甲だから「鼈甲」と呼ばれ、高級品として

高値で売買された。


大奥の場合ですと、早出の主人(御中臈)を送り出すために、

寝ている主人の髪を梳くのです。

そして、送りだされた中臈は自分の主人の御台や上臈などの

髪を寝たままで髪を梳いてあげるのです。


ちなみに御台の御髪上げをするには、お付の中臈の役なので

上手になってから御台の御髪上げをします。

その為、上手になるため仲間の中臈の髪で練習します。

稽古の為に盆の16日に仲間の者の髪を16人結いました。

ちなみに御 台が使う櫛は、歯の粗い物と細かい物と二枚づつ

三通り、都合六枚入っています。

黒塗りの櫛は表道具で飾りです。

常用の分は黄楊で、これは使い込んだものが宜しいものですから

古くなるまで御遣いになります。


又、旦那様(天璋院)の笄は鼈甲で、長さ一尺、幅一寸くらい、

厚さ6分、それに花が付いてます。

御中臈のは少し短いものでした。

別に寸法の定めはないので、拝領すればそのまま使います。


部屋方の者は、硝子や木で作られた笄を使っていました。

 花笄

江戸の女性のおしゃれポイントは、1櫛、2帯、3小袖と云われました。

は無くてはならない小道具で、必需品でした。現代もそうですか?

くっつくも「櫛」別れるも「櫛」の江戸の夫婦
江戸時代、初デートの時に贈ってはならないもの、それが櫛です。
なぜかといいますと、櫛を贈ることは「求婚」を意味したからで、

仮に一目ぼれでしても、初デートでいきなり「嫁になれ」は無理でしょうね。

櫛には、色々な櫛が有る。

目の細かい「梳き櫛」。髷を解いたときに使う「解きl櫛」、

髪結いが使う「結い櫛」、飾りに使う「挿し櫛」。


江戸の櫛で有名なのは、「お六櫛」で、木曽街道のお六が作った

黄楊の櫛が最初。

木曽街道の名物として宿場で売られ、江戸でも人気になった。


由来は、元禄年間、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、

治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、

髪をとかしなさいというお告げを受けた。

お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。

ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。


櫛が髪の飾りとして派手になったのは、貞享・元禄年間(1700年前後)。

井原西鶴の「西鶴織留」には、鼈甲の挿し櫛を、銀弐枚で誂えとある。

2枚だから20万近いものとなる。

銀1枚が43匁で、金1両は60匁。

大変高いものでした。


挿し櫛は、鼈甲が黒髪によく映えるので人気が有り、

裕福な女性にもてはやされた。

髪に挿す櫛は漆塗りや蒔絵が描かれたが、文化年間、

当時人気の絵師・酒井芳一が下絵を描き、

塗師・原洋遊斎が蒔絵を担当し、櫛の両側に銘を彫った櫛が

売られ大評判になった。


酒井芳一というと、徳川譜代の名門の酒井家・姫路藩主の子

として生まれ、他の大名の養子の口もあったが断り、

風雅の道を歩み、俳人また画家として大成した。

月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文


やがて、鼈甲も品薄になり、牛の角や馬のヒズメなども代用された。

馬のヒズメに鼈甲を被せるなどして騙すのである。


騙した例として、刀の目抜きもある。

目貫とは、太刀・刀の身が柄(つか)から抜けないように

柄と茎(なかご)の穴にさし止める釘。


元文5年ですから「御定書」が制定される少し前ですが、

真鍮で作った目貫を作り、売人と買人に分かれ、

往来で道行く人を誘い売ったのです。

その時、捕まって言渡された刑罰は「入墨の上中追放でした。


簪の偽物もありました。

天保の改革で贅沢禁止令を出して、奢侈を強く規制しようとしました。

例えば、「銀」の取引です。

銀は、装飾品に多く使われており、婚礼を迎えると、親は娘に銀簪を

作って贈ろうします。

当然、此れも規制されて、銀メッキをした簪をするようになります。

メッキするとは簡単であったようで、お金の一つで南鐐1朱が有りますが、

(16朱で1両)

是を鋳潰して、簪に被せたのです。

ちょっと見には判りませんが、削れば当然判ります。


これは町人だけであり、武士には何も関係ありません。

武士は持っていて当然というのが考え方でした。


ですが親は何としても買って上げたいと思ったのでしょう、

あの手この手で銀を手に入れて作ってあげたようです。

 ビラビラ簪
メタボンのブログ

このビラビラ簪も大奥では、ませ子は違うという。

絵では、女中がビラビラ簪を使っています。

ませ子は、それは御本丸風ではないという。

もっと地味なものさしてます。


銀簪も偽物が多く出ました。

というのも幕府は銀を収容通貨にする為に、銀の流通を厳しく制限し

御触れも出しました。

「灰吹銀や潰銀などは今後銀座並ぶに下買の者にしか売ってはいけない。

銀道具類を作るために銀の下げ渡しが必要なものは銀座でしか

買ってはいけない」としたものでした。


但し、これは武士階級には無縁の御触れで、武士には該当しません。

でも、しようと思っても金が有りません。


灰吹銀とは、粗銅を精銅にする時に出来る僅かな銅で,潰し銀とは

銀で作られた道具を潰した銀。


従って銀製の煙管、簪、帽子針、耳かき、鎖などである。

これ等をいわゆる八品商と呼ばれる質屋、小道具屋、骨董品屋、

古鉄買などを相手に売買を禁じたのです。


帽子針というのは、女性は外出する時に帽子を被りました。

それを止めるための針で装飾品です。

結婚式で使われる綿帽子も、この事から派生して出来たものです。

何しろ、江戸は心がひどかったですから、髪の毛が痛んでしょうが

なかったでしょう。


ちなみに江戸の様子を記している本もある。

それによると、

「土は灰の如くにて、雨天には泥中を歩むに異ならず。

昼は日中の暑さは、殊に激しく焼くが如く、朝夕は打って変って

涼しく、終日の雨なれば単衣にて凌ぎ難し。

冬は寒気は若山に3倍し、山の手は土凍りて、朝毎に霜柱2,3寸

立ち、土を高く持ち上げて、

午前8時より溶け始め木履でなくて往来成り難し

晴れには風吹かぬ日は少なし、強く吹く日は土煙り空に漲り、

衣服足袋を汚し、目を開きて往来成り難し」

そして、32文で粗末な防塵眼鏡を売っているとある。


でも、綿帽子くらいでは角は隠せないですよね!

そう思いませんか?

 帽子を被った奥女中の外出

若し売買した時には罰則が有ります。

偽物と知らずに買い取った場合は、品物を取り上げて過料(罰金)五貫文

之が御触れが出されると倍になって一〇貫文、1万文ですから

一両が6千文とすると一両二分、15万円になる。


その結果出てきたのが。銀メッキでした。

銀を水銀に溶解させて作ったアマルガムを胴や真鍮の表面に塗り

加熱させて水銀を蒸発させたものである。


当時よく使用されたのが通貨の一つである南鐐2朱銀である。

これを鋳潰して被せるのである。

之なら容易に偽造できた。

 文政南鐐銀


よく言われるが「メッキが剥がれる」とはか「箔を付ける」などの言葉は

この事から出来た。


偽といえば「贋金づくり」これは「御定書」では、「市中引き回しの上磔」

現代刑法で、無期または3年以上の懲役である。


江戸時代も多くありました。

以前紹介した(御畳奉行日記)でも、名古屋で発生し捕まった。

あまりに上手く作り過ぎたからである。


大体、貨幣の改鋳の時に多く見られる。

また、不審な人居たら通報してくださいという。

「贋金、偽銀を使う人が居たら訴えて下さい。例え、一味のものであっても

その罪を許します」

アメリカで行われる司法取引ですね。


平戸藩主・松浦静山の著書「甲子夜話)でも紹介されている。

捕まった者が「糾問の後、罪極まり、その者を馬に乗せ刑場に赴き

途中路上にて高声に「贋金作りだしお仕置きあらば、我々より屹度したる

二本道具のお役人こそ罪重かるべし」

品位を落とした幕府役人こそ贋金造りの犯人ではないかと言ったという。


すると、「満路の行人,一洪に笑いけり」

皆どっと笑ったというのである。


「付き従える町与力同心ども、忌諱に触れるを恐れて叱れども、

我等も死ぬる身なれば、憚る事有るべきやと幾度も罵りしに、

与力等も詮方なく黙せりとぞ」


付添いの町役人が黙り込んでしまった

幕府の財政を助ける為に、粗悪な改鋳をして差益を出そうとする

幕府に不信感を持っていたのです。


結局、11代家斉が豪奢な生活が出来たのも改鋳によって得た

大金、600万両とも云われるが、これが財源であったのです。